人間は神を認識できるかについてのノート

(http://ichurch.me:三十番地キリスト教会の第1談話室(掲示板)に書いた文章の転載です)

ちょっと不可知論者の見解に近く感じられるかも知れませんが、ぼくは、「神的なるもの」を直接人間が認識することは不可能だと思っています。
「神的なるもの」(something or someone divine)が存在するかどうかも、また存在したとしても、その存在を意識で直接認知することはできないのです。
また、もし認識できたとしたら、それは時間と場所に支配された有限な存在ということに他ならないので、それでは神的なものとは言えなくなると思うのです。

ところが、ユングの心理学の言葉を使えば、「投影(projection)」という機能が人間の脳にはあります。
無意識の領域にある心の「元型(archetype)」が、無意識ゆえに意識することはできないんですが、それを外界の何物かに「投影」して、そこにあたかも存在するかのように意識してしまうという機能です。
そして、宗教心というのは、自分の無意識の中の「神」元型が、外界の象徴(岩でも、樹木でも、仏像でも、聖像でも、十字架でも、あるいは教会堂、あるいは何らかの自然物か道具によって作られたある空間でもいいのですが)に投影されたもので、そこには何も無いのですが、そこに何物かが存在するように感じる、というのが宗教心だとぼくは思っているのです。

ですから、「じゃあどこに神は存在するのか?」と問われると、ぼくは「あえて言えば私たちの心の深奥の無意識の深い所に存在していると思われますけど、それが1人なのか複数なのか、果たして人格神なのか人格などないただの法則のようなものなのか、とにかくわかりませんよ」と答えざるを得ない気がするのです。

とにかく確かなのは、私たちの心は、見えないものを、存在しないはずの場所に「見ることができる」のです。あるいは「見てしまうのです」。
そして、何をどう見るかというのは、文化や社会背景や「見る」主体である人間の生い立ちなど、様々な要素によって、いくらでも変化します。だから宗教というのは非定型にどんどん地域や時代をまたいで変化していってしまうのです。

ですから、ユダヤの神、キリスト教の神……といった風に、あたかも定型化された神が存在しているように論じるのは、ぼくにとってはあまり現実的ではないように感じるのです。
私たちが認知できるのは、自分の心の中にある「神的なるもの」「聖なるもの」あるいはそういったものへの憧れを、外部の何かに投影した結果見ることのできる幻なのです。
人間は神の幻しか見る事はできないのであって、それはどんなに追求しても神そのものではないのです。
そこをちゃんと認識しておけば、私たちは「神はこう言っておられる」とか「お前は神に裁かれるであろう」等と言った、まるで自分は神を知っている(すなわち、神を把握していると言ってしまった時点で、自分を神以上の者に位置づけてしまっているのですが)かのような態度はやめて、もっと謙虚になれると思うのです。

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非難メールの話:その3

非難メールがまだ続いているのです、同じ人からですが。
前回(2回目)の非難メールに対して、ぼくは、「おっしゃっている事の内容は理解できます。しかし、同意はできません。仕方がありませんが、どなたかもう少しあなたに同意してくださる方とお話になったほうがよいのではないかと思いますよ」とお返事しました。
すると、今度はこのようなメールが届きました。

*****
パウロや、キリストは、その言葉に同意できる人たちだけに話したのではありません。
彼らはひどい反対や、様々な誹謗中傷に会いましたが、どのような人に対してもまっすぐに聖書を語りました。
そして、キリストの言葉に同意できる人間は永遠の報いを受け、同意しない人間には裁きの日キリストの言葉が、その者を裁くと書いてあります。
人間はおのおのそれぞれ善であれ、悪であれ、やった事に応じて、裁かれます。
魂が失われていく事を、ただ傍観しているということはできません。
貴方と、貴方の教える様々な魂が失われるという事を黙って見ているわけにはいかないのです。
キリストの懲らしめを、受け入れる人間だけが、神の子として扱われます。
もし懲らしめをされず、受け入れないのであれば、それは実の子ではないと書いてあります。
ですから、伝えるべき事は伝えました。
それでもこのような事を教え、間違った方に導くのならば、貴方の血が貴方の上に降りかかる事になります。
その日の裁きはソドムやゴモラよりも重いというキリストの言葉を、軽く受け止めないでください。
裁きは永遠です。
心から、貴方が悔い改められるうちに悔い改め、そうならない事を祈っています。
*****

やはり思ったとおりです。この方は善意でぼくを非難してくれているのですね。ぼくやぼくの影響を受ける人が裁きを受けることのないように、と義理も無いのに呼びかけてくださっているわけです。
「求められたら、与えなさい」と聖書にもありますが、求めてもいないのに与えてくださっているのですね。ありがたいことです。

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久々に来た非難のメール:その2

先日の非難メールに「お名前を名乗ってください」とリクエストしたら、再び以下のようなメールが送られてきました。

問題は、貴方の教えている事なんです。
使徒伝行で、ペテロが、シモンに対して間違いを正した時、それは優しい言葉だったのでしょうか?パウロがバルイエスと戦うときに優しい言葉をかけましたか?イエスがパリサイ人に対して、注意したとき、優しく語りかけたんでしょうか?全て違います。神を恐れ、神の言葉をも恐れなければなりません。
契約の箱に触れただけで死んでしまうというほどの、神の聖さを恐れるべきです。
救われて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、もはや生けにえは残っていません。ただ、恐れながら焼き尽くす火を待つしかありません。
ユダの手紙を読んでください。
ヘブル人への手紙を読んでください。
そしてパリサイ人に対するキリストの注意を読んでください。
それらは皆貴方に当てはまります。
神の恵みを放縦に変えてはなりません。
死後無になるなどという事はありま せん。
聖書とキリストを馬鹿にし続けるならば、貴方の永遠の命だけではなく、貴方が教える沢山の魂も永遠の滅びに向かってしまいます。
その事に対する刑罰は大変に恐ろしい物です。
生ける神の手に落ち入るのは恐ろしい事です。
聖書は、好き勝手に使っていい物ではありません。
聖書を信じていないのであれば、教えるのを止めるべきです。
地獄は火が消える事も無いし、ウジがつきる事もありません。
悔い改められるうちに、悔い改める事ができるように。
デイビット・ウィルカーソンという、牧師の中の牧師がいます。
彼のサイトを見てください。
http://www.worldchallenge.org/ja/node/2851
彼は御言葉をまっすぐに教えている、本当に信頼できる牧師です。
何が神の御心か、貴方は知る必要があります。

この方は、ぼくが地獄の火で焼かれないように、心配して、好意でこのようなメールを送ってくださっているのだと思うようにしよう、と思いました。

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久々に来た非難のメール

ここ数年、あからさまな批判、非難のメールは来た事がなかったのですが、一昨日は久しぶりに正面切って非難の声をお送りくださった方がいました。「正面切って」と言っても、所属も名前も伏せたままですから、覆面をした人間に殴られたようなものですが。
以下に全文を引用してみます。


サイトを見ました。
このような事を教えるならば、永遠の地獄の刑罰を覚悟しなければなりません。
聖書を信じていないのであれば、キリストの僕、牧師を止めるべきです!!
キリストは、貴方のために、十字架にかかり、復活したのに、なぜ再度彼を、十字架にかけ、侮辱するんですか。恥ずかしくないんですか。
貴方を救うために、また、全人類を救うために、死んで甦ったキリストに、人々をつまずかせているんですか。なぜ人々に唯一の道であり、真理であり、命であり、唯一天国に人を招いている方を自分でも見ないばかりか、人から隠すのですか。
本当に聖書を信じないのであれば、貴方に牧師の資格はありません!!
今すぐ止めるか、聖書を文字通り信じ、教えてくだ さい。
聖書とキリストは貴方のおもちゃではありません!!

……ということでした。ぼくは論争にならないと思い、「ご意見は拝聴いたしました。人を批判する時は名前をしっかり出してくださいね」とお返事しました。
まあ、これも返事らしい返事ではありませんが……

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『300』を観ました。

20120105300027相変わらず筋肉対決が好きなもんで、前々から観ようと思っていた『300(スリー・ハンドレッド)』を正月休みの間に観た。
徹底的に作り込んだビジュアル・エフェクトのせいで、最初から最後まで本物の生身の人間がどこまで演じているのか実感がとぼしく、結局全部CGアニメーションだったのかと思いたくなるような映像だったけど、まあまあ面白かった。
舞台は紀元前480年のギリシア。アケメネス朝ペルシア帝国のクセルクセスが100万人の軍隊を連れてギリシアに侵略しに来るのだけれど、これに対して迎え撃つのがたった300人のスパルタ人精鋭部隊であったという、「テルモピュライの戦い」を映像化したもの。
映画ではペルシア軍は100万人とされているけれど、古文書によれば200万人以上であるとか、歴史化の研究によれば6万人程度であっただろうとも言われているらしいけれども、とにかく300人でそれを数日間食い止めたのだから、すごい事には違いない。
よく「スパルタ教育」という言葉が使われるけれども、確かに映画に描かれているようなスパルタ人の男子への教育法には厳しいものがある。
物語は今から2500年近く前の話だが、テーマとしては「自由と自治の為には血を流す事も命を捨てることも厭わない」という事。非常にアメリカ的なものがあるのではないかと思った。
スパルタ人は自由自治を貫く為に敵と戦って命を失うことを最高の栄誉とすると言う。そして300人の兵たちは、「No retreat! No surrender!」と連呼する。ちょっと前に観た『ロサンゼルス決戦』と似てるなあと思った。大体、全編英語で台詞が話されているわけで、まあそれはいいにしても、「No retreat! No surrender!」ってすごく英語っぽい表現だと思うんだけど、これギリシア語だとどうなるの? と考えてたりもした。
しかし、絶対に退却もしないし、絶対に降伏もしない、最後まで戦い続けて討ち死にを望む、というのは、旧日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」と言って、捕まったら自決しろという価値観とはかなり隔たりがあるなあと思わされた。
自決するとか、腹を切るという発想がアメリカ人などには無いだろうなと思う。
そうなると、キリストの死などはどう捉えるか。あれは罪と死の力と最後まで戦って果てた姿と見るか、それともあえて自分の命を捨てて身代わりとして罪を贖った姿と見るか……実は民族性によってどの要素を強調するのかは変わってくるのではないか……などと、映画とは全然違うことを考えてしまったのであった。
映像がとても面白かったので、そういう意味ではとてもよくできた映画だと思うけれども、特に感銘を受けるという事も無かった。

それにしても、あの筋肉は皆さん本物なのでしょうか?
ジェラルド・バトラーがあんなにムキムキだったとは……うーむ。


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偶像崇拝について思う事に関する連続ツイートのまとめ:その2

偶像崇拝についてツイートした事のまとめ(2)
偶像崇拝論でツイート連投ついでに思う事がもうひとつ…偶像、いや象徴は無生物のほうが望ましいということは頓に思う。

それが無限の愛や優しさであればまだしも、ネガティブな感情や欲望であった場合、「神はお怒りになっておられる」などと妄言を吐くようになる。自分の意識下の感情を神の名によって絶対化してしまう。
下手に人間に似た像を作ると、人間にとっては感情移入しやすく親しみやすいという利点がある反面、あまりにもリアルな人間の、無意識に抱いている感情や欲望なども投影しがちになる。
もっともネガティブな感情の投影による宗教の危険性も、見える偶像を掲げているよりも、偶像崇拝を拒否している場合の方が害が大きいかもしれない。自分のネガティブな妄想を目に見える象徴が制限してくれないので、その妄想がそのまま神の意志として絶対化されやすいのだ。

人間の心には母の胎内に宿った瞬間から現在にいたるまでの養育歴において、様々に複雑な傷、悲しみ、怒り、罪悪感、恨みなどが堆積していて、それが教育や結婚、親子関係、その他の人間関係すべてに、本人が意識しきれないほど広範囲にわたって影響を与えている。
これは人間の脳の発達の結果なので、喜ばしい反面、危険でもあると思うのだが、「人は他人にも自分と同じような自我があると想像できる」という能力が幸か不幸か存在する。
ところが、ほとんどの場合それは他人を本当に理解する事ではなく(そんな事は入れ替わらない限りできるわけがない)、自分の中にある人間理解の投影でしかない。

しかし、投影する相手が無生物であったり、人間からおおよそかけ離れた生物であると、投影される感情が多少抽象的なものになるのではないか。少なくとも、その偶像が自分のネガティブな過去を連想させるものであったとしても、それと目の前にある象徴との距離を取りやすいのではないか。
例えば、墓は四角いほうがいいわけだ。いや丸くても棒でもいいが、あまりリアルな故人の像ではない方が、自分の感情を投影しにくく、自分の感情は自分の感情としてとどめやすいのではないか。
神や仏の像も同じで、リアルな人間型の像よりも、無生物のほうが投影に程よい制限がかかって、個人的な感情の無制限な投影をセーブする機能が働くように思う。あるいは、生物であったとしても、人間を遥かに超越した超越的なもののほうがよい。
象徴はあったほうが、個人の妄想を絶対化する危険性を避けやすいのだが、その象徴は抽象的な無生物であったほうが、やはり個人の抑圧された感情の投影を防ぎやすいのではないか。
また、圧倒的に超越的な存在であることを表す象徴物のほうが、やはり、個人的な深層心理の中にある感情のわだかまりを投影しにくくなるのではないか。あくまで仮説的な考えではあるけれど。

抽象的な無生物の象徴は、「愛」とか「平和」とか「善」「寛容」などといった大づかみな概念で人びとの心をつかみ、細かい部分での感情的、理論的対立を避ける可能性が高いのではないか。
また、象徴をまったく人間型ではない無生物にしておく利点は他にも、「人間を超越したもの」という概念を表現しやすいという事がある。

偶像崇拝をただ禁止しても、人間の心の投影という機能は止める事ができない。すると、最悪な場合、人間に宗教的感情を投影してしまう。共産主義が宗教を否定して、結局指導者の神格化を産んで暗黒化するというのは典型的パターンだと思う。
天皇制を尊いと思っている人に北朝鮮は笑えないと思う。全く同じではないが、似た面が多いと思う。日の丸や君が代といった象徴物に対する敬意が不十分だからといって免職にするなどというのも同じ。言語道断である。

というわけで、話が天皇制批判で終わってしまうのもつまらないので、本題に戻るが、聖書、十字架、ロウソクの灯火、祭服や王灼?などの装身具、カリスなどの様々な祭具、ワイン、ホスティア、水、香…などといった無生物の象徴物をフル活用して行う聖公会の礼拝が、私は好きだということです(笑)。


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偶像崇拝について思う事に関する連続ツイートのまとめ:その1

偶像崇拝についてツイートした事のまとめ(1)

偶像崇拝についての話はなかなか共通理解が得られにくく感じる。ただ像や墓に向かって拝むかどうかという基準で判断しているクリスチャンが多いように見受けられるから。

見えないものが大切だとはよく言われるが、見えないものは所詮見えないし、触れないし、聞こえない。つまりその存在を人間は認知できない。それを認知できるというのは妄想でしかない。それは見える媒介(メディア)で「象徴」して初めて人間に認知できる。
つまり、像を拝む人は、像自体が神や仏だと思うのでなく、神や仏を表現する象徴であるとわきまえていれば、それで偶像崇拝ではないと言えてしまうのではないか。クリスチャンにおける十字架と似たようなものではないか。
心理学の初歩的な理論から考えると、人は様々な像などの象徴に対して、自分の心の深層にある神や仏や悪魔などの元型を「投影」しているとも言える。人は像に向かって祈るが、実は像に投影された自分の心の中の聖なるものに対して心を寄せているのだと言えるのではないか。
そうなると、逆に偶像崇拝禁止だと言って像を壊したり撤去したりして、殺風景な場所で宗教をやる方が危険な面もあるのではないかという気がしてくる。ちゃんと目に見える象徴が無いから、信者たちの勝手な妄想が暴走する。

目に見えて、触れて、聞こえて、香り、味わうことができるような象徴があれば、多くの人がともかくも聖なるものに対する共通のイメージを持ちやすくなる。
ところが、偶像崇拝禁止の名の下に一切の象徴を破壊してしまうと、聖なるものに対する共通理解が破壊される。その結果、個々人が自分の中にある聖なるもののイメージを、勝手に万人に共通する聖なるものだと思い込む危険性が極めて高くなる。信仰論議で争いが絶えなくなるわけだ。

でも、やっぱり人間というのは、共通理解というものを共有して一体感を味わいたいものだろう。それで例えばある種のプロテスタント教派のいくつかにおいては、教義や「見える」媒介としての信仰告白/信条/信経といったものが絶対視されるのではないか。
というわけで、ぼくの頭の中では、「信仰告白に従うと言えない人は伝道師や牧師になれない」とか、聖餐を未信者に与えた牧師を免職するなんてのは、偶像崇拝の一種でしかない。
ただ、ぼくは偶像崇拝がいけないとか禁止すべきだとは思ってないので、連中が信条や聖餐を偶像化するのは勝手におやんなさいと思う。ただご本人たちは自分たちの行為が偶像崇拝ではないと言い張るだろうから、バカだなとは思うけれどね。

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校舎がどんどん建ち上がってきました。

20111125build同志社香里の新校舎建築日記みたいになっていますが、1回部分のコンクリート打ちが終わり、いま2回部分の鉄筋をくみ上げているところです。
写真で手前に見える部分は、どうやら1階の上がテラスみたいになる部分なんでしょうね。
で、奥のほうが校舎です。
ぼくは近頃ぐんぐん期待を高めているのですが、たぶんこの新しい校舎からは、西側の空がスカーンと抜けてよく見えるはずです。遮る者がありません。
ですから、同志社香里自慢の、香里の丘の上から見える夕陽を真っ正面から眺め放題になるのではないかと予想しているのです。
これはかなり楽しみです。夕暮れ時、カメラをもって校舎の最上階をうろうろしている怪しい教員がいたら、それはぼくです。

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広島の「お好み焼き」はレイヤー構造

20111019micchan関西ではお好み焼きのことを「お好み焼き」と呼び、広島のお好み焼きのことを「広島焼」と呼びます。
しかし、講演で「広島焼」という言葉を使ったぼくに、講演後の懇談会で学生さんたちから「『広島焼』という食べ物はありません」と指摘を受けました(笑)。「え? 『広島焼』でなかったら何と呼ぶんですか?」と訊いたら、「『お好み焼き』です」と答が返ってきました。なるほど、お好み焼きは広島が本家だということですね。わかります。
「じゃあ、関西のお好み焼きは君たちは何と呼ぶの?」と質問したら。「あれは『関西風お好み焼き』です」との事。なるほど、わかりました。

「お好み焼き」と「関西風お好み焼き」は一見似ていますが、食べてみると中身は全然違います。
まず、関西風は生地とキャベツと卵と鰹節なり何なり出汁のもと等を焼く前に混ぜ合わせます。しかし、広島のお好み焼きは混ぜない。生地を鉄板にあけて焼き始め、そして千切りキャベツを載せ、肉を載せ……という風にレイヤー構造になっているのです。
そして、絶対に外せないのが麺です。中華そばが入るのが正式な「お好み焼き」です。麺もこだわり麺を使ってあります。関西では麺は原則は入らず、麺が入るのは「モダン焼き」と言いますね。しかし、広島では麺が入るのがスタンダード。それも中華そばとうどんが選べます。しかし、まずはそばが定番らしいです。
そしてレイヤー構造の上に再び生地が乗っかって、焼き上がったら「おたふくソース」です。関西では「オリバー」がメインだったと思います、広島では基本おたふくで、専用の容器もあります。

広島女学院大学でのお仕事の帰りに、職員さんたちのお勧めで広島駅ビル内の「みっちゃん」に入り、「もちそば肉玉子」を頼んで、ビールと共に食しました。
うまい! しかし、上記のような構造の違いにより、同じ料理として比較はしにくい。よって勝負は互角となりました。
ただ、この店、ビールはサントリーのプレモルにして欲しかったです。


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広島女学院大学に行ってきました。

20111019hjusmh去る2011年10月18日(火)〜19日(水)、広島女学院大学の秋季宗教教育強調週間のメイン講師としてお呼びがかかり、講演などをしてきました。
1日目が「キリスト教の時間」(礼拝のような行事)で35分もののメッセージ、その夕方には教職員懇談会で約1時間の発題、翌日は「特別講演会」で75分ものの講演を行いました。
その他は、1日目の昼食は学長先生やキリスト教教育に関わる先生方でとり、様々な興味深いお話をお聴きしました。こちらの学長先生は、中央教育審議会のメンバーで、学校改革の新しいビジョンをたくさん持っていて、たくさん楽しいプランを聴かせていただきました。ただビジョンやバイタリティがあるだけではなく、キリスト教主義教育に対する情熱とこだわりも激しく、こんな人が上司だったら、やりがいがあるだろうなあと感じさせられました。
また、教職員懇談会のあとは、気の合う者が集まってオフ会です。
広島市内の居酒屋に7人が集合して、大いに盛り上がりました。「よくここまでバカな事が言えるな」と自分でも思うくらいバカなことを言い倒して、腹がよじれるほど笑った楽しい飲み会でした
2日目が一番大仕事で、「特別講演会」。1時間以上の持ち時間をKeynoteを使い倒してしゃべりました。
「いつもはしゃべってる学生を黙らせたり、寝ている学生を起こしたりが大変なんですが、今日はそれがなかったから、本当によかったです」と副学長さんがおっしゃってくださって、本当によかったと思いました。
実は、17日(月)の夜は一睡もせず、電車に乗るギリギリの時間までKeynoteでプレゼン作ってて、18日(火)の新幹線の中でもバリバリ作ってて、広島到着と同時に仕上がり、そのままお昼にメッセージ。そのあと、学長先生の懇談のあと、17時半の教職員懇談会のプレゼンが出来上がったのが、開会30分前。そして飲み会でさんざん騒いで、ホテルで4時間ほど寝て、それから最後の講演のプレゼンの仕上げにかかっただけど、これがなかなかできなくて、広島駅のマクドナルドでゴリゴリ作り込んで、講演会の40分前にタクシーに飛び乗って大学へ。ホールに到着したのが、講演会開始の20分前でした。
というわけで、何から何までギリギリセーフ。
全ての講演が終わった後、有志の学生、教職員さんたちとの懇談会は、全くフリーなトークで盛り上がり、本当に楽しかったです。

この2日間、出会う人、出会う人、みんなとても礼儀正しくて、温かい笑顔で、情熱的な言葉で語る人びとばかりだったので、ぼくはとても刺激を受け、触発され、やや興奮状態でこの2日間を駆け抜けました。
どうしてこんなにみんな心のゆとりや前向きな気持ちを持って働いているんだろう、と不思議に思うほどステキな方々でした。
いや、ほんと、この人間性はどこから来るんでしょうか? 信仰? でもクリスチャンの数がそんなに多いわけではないのです。クリスチャンの数など全く問題ではないでしょう。やはり、理事長のK先生、学長のN先生のご尽力が、単に学校経営の部分だけではなく、人間として感化するところが大きいのでしょうね。
一にも人間、二にも人間か……そんなことを感じさせられました。
20111018hjugcもう一つの写真は、この大学の礼拝堂である「ゲーンスチャペル」の内部の様子です。
左右比対称で、ステンドグラスからの自然光が有効に生かされたデザイン。そして十字架が空中に浮いているという珍しい着想です。とても美しい幻想的な空間で、いつまでいても飽きない、メディテーションに最適の礼拝堂でした。
また来てみたいと思う大学でした。

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«新校舎が地上に立ち上がってきました。