わが内なる原理主義
自分の著書の編集中、編集担当者の人に、「どうしてそこまで事実性にこだわるんですか?」と言われたことがあります。イエスの病気治しなどの奇蹟について書いていた項目のところでです。
編集者の方は、「奇蹟が事実であるかないかよりも、聖書の中に奇蹟物語が記されていることの意義や、奇蹟物語が示している人間へのメッセージのほうが大切ではないのか」ということを、ぼくに言いたかったのではないかと思います。
でも、ぼくは「病気が治るかどうかということは、病気をした当人にとっては、ものすごく大切な問題なんですよ」といってくいさがって、結局、病気治しということは事実としてあるのですよ、ということを書きました。現代の科学でも、病気治しは否定しきれないと判断したからです。
その一方で、イエスの復活については、否定的な記事を書きました。死んだ人間は復活するということは、生物学的にも医学的にもありえない、と。このことで、ぼくは「キリストの復活や神性を否定している」と、一部のクリスチャンの方々に非難をあびています。しかし、病気治しはともかく、死者の復活を、科学的なものの見方を身につけてい現代人に信じ込ませようというのは、洗脳以外に手はないでしょう。
しかし、こういう非難を受けて、改めて自分について気づいたのは、否定するにしろ肯定するにしろ、自分は、奇蹟や復活が事実であるかないかに、妙にこだわる傾向があるということです。
最終的には科学的な判断を大事にするのですが、問題意識として、奇蹟や復活が事実であるかどうかにかなり関心を持ってしまうのです。
結論として否定するにしろ肯定するにしろ、聖書に書いてあることが事実であるかどうかに妙に拘泥してしまうのは、結局キリスト教原理主義者と呼ばれる人たちと、軌を一にしている部分があるのではないかと思います。
何年牧師をやってそのことに気づくのかと笑われるかも知れませんが、奇蹟にしろ、復活にしろ、事実であるかどうかはともかく、そのような教理がぼくら人間の生き方に対してどういう意味があるのかを、きちんと問うことをしなくてはならないのでしょう。今更のように課題を確認します。

Comments
先生の当該の著述は未読であると言うことを踏まえて・・・
的はずれだったらごめんなさい。
只今失語症の知人がいます。
突然しゃべれなくなってしまいましたが、
たまに一言二言しゃべれたりしながら、
だんだんと治る方向に向かってます。
そのひと、解離性の気もあって、あまりなストレスを経験すると、
突然違う人格が出てきたりします。
抑圧されていた感情が一気に吹き出す感じ。
普段はおくびにも見せない、恐怖とか、攻撃的な面とか。
とてつもない感情を向けてきます。
多くは彼の幼少時から現在に至るまでに送ってきた環境に
問題があると思うのですが、
この分野に関しては門外漢なので、主観は控えます。
それと、彼とは余りに個人的な関係なので。
かつて、このような症状を持つ人びとは、聖書に書かれているとおり、
悪魔憑きとか、罪の仕業とか信じられたのでしょうけど、
イエス様はこれを「病気」として受け取って、
その人生に被った痛みをまるごと理解し、引き受けることで、
彼らを癒されたのではないかと想像します。
精神と肉体はちゃんと繋がってますから、精神的な部分をケアすることで、
身体的な障碍をも癒されたであろうことは、想像に難くありません。
前に述べた彼の失語症の発症から、回復に至る経緯を目の当たりにして、
イエス様の奇跡が、ちょっとオーバーな記述こそあれ、
まったく荒唐無稽な作り話なんかじゃなくて、
たしかに存在した事実であると言うことを、
僕も疑う余地はないと思います。
ってゆーか、先生はごく常識的なことを仰ってるだけのような気がするんですけど。
そういうのって、宗教の場ではダメなんですかね?
復活云々は難しくてなんだかよくわからないし、
イエス様が生き返った返んないは、
あんまりパンピー(一般ピーポーの略)な僕らに関係がない。
昔の奇跡より、今の現実だから。
とはいうものの、ネットとかでは自分の意見が、ちょっと否定されただけで、
いきなりキレるひともいますからね。
怖いですよね。
あ、話はずれました。
ところで、毎月のように某教会のオルガン演奏付き礼拝に参加してるんですけど、
場所柄、そこのお説教でしばしば、病院で亡くなってゆく方の話を伺います。
癒える病もあれば、癒えない病もある。
癒えない病の最中にあっても、癒されるときはある。
それってなんなのかな、と考えます。
そんなこんな、とりとめのない話で御免蒙ります。
どうぞ、お気をつけていってらっしゃいませ。
Posted by: 風船 | March 24, 2007 at 23:36
癒える病もあれば、癒えない病もありますね。
イエスの癒しも、治った人もいれば、治らなかった人もいたと思います。このような宗教集団の常ですが、治らなかった人は去ってゆき、治った人がグループに残っていくために、開祖の周囲には治った人ばかりが集まるようになる。そのような集団は一種の熱気や興奮を帯びた徒党になっていたんだと思います。そのエネルギーがまた癒しを呼んでゆくということはあったんだろうと思います。
また、病そのものが治るということがなくても、心からその痛みや苦しみ、悩みが「癒される」ということが、イエスとの出会いのなかで起こったのだろうと思います。
手荷物のなかに遠藤周作の作品を入れました。飛行機のなかで、もういちど遠藤周作がイエスの癒しとイエスの復活をどうとらえ、どう描写しようとしていたのか読み直そうと思っています。
Posted by: 牧師 | March 25, 2007 at 00:01
お疲れさまでした。掲示板が吹っ飛んで大変ですね。
>聖書に書いてあることが事実であるかどうかに妙に拘泥してしまうのは、結局キリスト教原理主義者と呼ばれる人たちと、軌を一にしている部分があるのではないかと思います。
プロテスタント魂と宗教批判を徹底しようとすれば、某先生の境地にたどり着いて当然だと思いますが、同時に事実性にあくまでも拘泥することが某先生の強みでもあり、また限界でもあるように確かに私も思います。留保はつけておられますが、やはり二元論の罠からは大碩学ですら抜け出せない。Ta,Tb,Tcがあってもよいと思います。(←神学じゃないですよ)
もっとも某先生はそんなことは百も承知のうえでやっておられるところが凄いと思いますが。テキスト批判さえしてりゃ立派な学問だと勘違いされておられる、結果的に護教に与する方達しかいなくなっちゃいますから。
晩年を迎えて、某先生が心の底から愛してやまなかった日本のプロテスタント・メインライン教会が、ここまで変貌するとはまったく予想だにされておられなかったと思います。
同時に、二元論に陥らないように私自身も努力するのみです。富田先生のご本、遅まきながら注文いたしました。
Posted by: ユリアヌス | April 06, 2007 at 22:40
ご注文、ありがとうございます。読んでしまえば、さらりと読み終えてしまえるような本ですが、政治的に教団を統制したい方々にはゆるせない表記があったようです。
信仰的にゆるせないとか、学問的にゆるせないのではなく、政治的にゆるせないようです。2つほどの教会から、まったく同じ文面の抗議文書(つまり組織的)が出ていますが、その中には「個人的意見を出すのは勝手だが、教団の出版局がそれを出してはならない」という形で、「教団の一部門に過ぎない」出版局に釘をさそうとしているのがありありとわかります。
旅行中に某先生にかなりこきおろされている遠藤周作を読みました。遠藤氏も、復活については、大事な部分は「宗教体験」、「謎」という言葉で、具体的に叙述することは避けておられるのですね。
それでも、護教論者からはたたかれたようですから、なかなかこの業界むずかしいのですね、事実を批判的にとらえてゆくということは。
なぜ事実を求める健全な懐疑心(立花隆風の物言いですが)が、この業界ではうとましがられるのか、それが納得いかないです。幻想のなかの自己満足にひたっていたいのでしょうね。そして、宗教の信者というのはそういうもんだ、と周囲からも思われて、誰からも何も期待されなくなってしまっているのでしょう。
Posted by: 牧師 | April 08, 2007 at 22:33