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パームサンデー

ボストンのトリニティチャーチで棕櫚の日曜日の礼拝に参加してきました。生徒たちも同僚の先生や現地のアシスタントたちもいっしょにです。
150年近くの歴史を持つ巨大な礼拝堂は芸術的建築物としても有名で、堂内の壁画や彫刻、ステンドグラスも見事なものでした。
音楽にもかなり力が入っており、100人近くはいるかと思われる聖歌隊とパイプオルガンと共に歌う賛美歌は感動的なものでした。
洗礼さえ受けておれば、教派に関わらず、すべてのクリスチャンが聖餐に与ることができる、と説明してあったので、われわれの団体の中から、日本人はぼくだけ、あと2-3名の現地のアシスタントが聖餐をいただきに、祭壇にあがりました。
生徒達は、よくがまんしておしゃべりもせず座っていたな、という感じ。でも、なかには、いっしょうけんめい英語の賛美歌を歌おうと努力して声を出していた子もいました。かわいらしいですね。

聖餐は今回同行した日本人グループのなかでは1人だけ自分が受けて席に戻ってきたわけですが、いろんなことを考えました。
見知らぬ人たちであったとしても、同じ聖餐を受ける多くの人たちとのクリスチャンとしてのつながりが感じられることは、とてもうれしいことでした。
しかし、その反面、自分が共に生活している日本人の仲間との間には、はっきりと線が引かれた気もしました。
祭壇に向かうために立ち上がったとき、一瞬、自分だけ聖餐を受けることに、優越感のようなものを感じかけたのも、後で思えば愚かしいことのように思えてきました。
聖餐の意味がわかってから、信仰を告白して、それで初めて聖餐が受けられるということと、聖餐の意味がわからなくても、全ての人のために与えられた愛の形としてパンとぶどう酒が与えられ、あとから意味がわかってくるということと、正当性(「正統性」ではない)はフィフティフィフティのように感じるのです。
こういう考え方は、現在の日本のプロテスタントの多くの聖職者からは攻撃されがちなのですが。

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