ファンタジー
学校で授業をして、イエスの生涯を描く場合に、すでにベツレヘムに博士たちを星が導いたとか、イエスが生まれたのは処女からであったとか、そういうことは史実ではありえないとか、復活というのは、墓から死体が起き上がって出て来たのではなく、弟子たちが見聞きした体験のことである、誕生物語、受難と復活の物語は「フィクション」の部分が多いのだ、というようなことを生徒たちに話してきたのだけれど、やはり「フィクション」という言い方はよくないのかも知れない。
それは、現代人の感覚では事実として認められるようなものではないけれども、その場その時に生きていた人びとにとって、そして聖書を書き残した人びとにとって、大切なことを伝えようとする物語なのだということを言いたい。「フィクション」というよりは、「ファンタジー」と言ったほうがいいのだろうと思う。そのファンタジーにこめられた意味を解き明かすのが、自分の仕事の目指すところなのだろうと思ったりする。

Comments
こんばんは!いつもお世話になっています^^
御記事に頷きながら読ませていただきました。しかし...
「フィクション」がダメな人にとっては「ファンタジー」もダメのような気がします...(笑)
聖書神学のタームだと「神話」ということになるのでしょうけれど。
呼び方はどうあれ、一番大事なことは、まさにおっしゃっている通り、その物語を通して「その場その時に生きていた人びとにとって、そして聖書を書き残した人びとにとって、大切なこと」として伝えられてきた内容を解き明かして、今の私たちのそれぞれの現場(生活の座)における言葉で語りなおすことなのでしょう。
解き明かすだけではなく、語りなおすことこそが必要だと思いますが、御著書はそのことに果敢に挑戦し、たいへんに成功していると思います(偉そうな言い方になって申し訳ありません)。
そもそも「史実である」という主張そのものも、「史実かどうか」という近代合理主義的な問いの立て方の範疇にあるわけで、そういう意味では「史実でない」という主張とは正反対のようで、実は双子の関係にあるのかもしれません。
その上で、最近考えていることは、物語/神話/ファンタジーというものを解き明かしたり吟味したり時には解体して、そこに「何か」を見出そうとする営みを私たちはしているわけですが、同時に物語/神話/ファンタジーという枠組そのものが帯びている「何か」というものがあるのではないか、ということです。
知性や理性を犠牲にすることなしに、物語/神話/ファンタジーを、そのままに受け取るということは、私たちにとってたいそう難しいことになってしまったかのようでもありますけれど、それでもなお、そのままに受け取ろうとすることは、無駄なことではないと思うのです。
単なる思考停止や現実逃避とは異なる「あこがれ」を生み出す力が、聖書の物語/神話/ファンタジーにはあるのではないかなー、と思ったりしつつ、ホンマかいな?と自分でツッコミをいれたり自問自答しつつ、土曜の夜は更け、日曜の朝が近づいてくるのでした。。。。ヤバイ!
Posted by: peripatos | September 01, 2007 at 23:38
そうですねぇ……まぁ「これで大丈夫!」みたいな方法論を確立しているわけではなく、毎日試行錯誤ですが、ファンタジーを読むつもりで、聖書を読んでもいいんではないかと思うのです。まるで、実在の登場人物をモデルにしたフィクション(セミ・ドキュメンタリー)として読むのと同じようにですね。そのようにして、物語の大事なところを再話してゆくのが、ぼくたちの仕事なんではないかな、と思いつつあります。
Posted by: 牧師 | September 02, 2007 at 18:14