社会不安障害
社会不安障害、の疑いがあるそうだ。
人前で注目をあびたり話したりする場面になると恐怖感や不安感に悩まされる。他人の視線が怖い。自分の視線が不快感を与えていそうで怖い。他の人の言葉や行動の意味を深読みしてしまい落ち込む。人とのコミュニケーションのとりかたがわからない。そういったことを避けるために孤立的な状況に逃げ込みがち……と、お医者さんの机の上にあるMacの画面に出てくる絵や文章に、「はい、あります。はい、それも……」と、いちいち面白いほどに当てはまっていた。
でもそれって、教師に向いてないじゃん。牧師に向いてないじゃん。説教者に向いてないじゃん……と思わずお医者さんの前で力なく「ははは……」と笑ってしまった。
こんな向いてない者でもこういう仕事をしているのです。全国の「自分は向いてない」と悩んでいる牧師さん、教師さん、こんな人間もいるのです。あなたはひとりではありません。
しかし、これは性格の問題ではないのだそうだ。治療すれば治るというのだ。これが治ればどんなに生きやすくなるだろう。治る、という希望をもって生きていきたい。

Comments
牧師に向いている、牧師に向いていない、について答えがあるのかどうなのか悩むところです。
病気、障がい、差別、それらが癒された時、生きやすくなるかについても、本当にそうなのか悩むところです。
病気や障がい、差別の苦しみから解放されたら、今度は差別する側になったりして、別の悩みを持つのかも知れません。
ひょっとして、今が一番良かったりして・・・、と思うこの頃です。
Posted by: kawaranochurch | December 18, 2007 at 12:30
病気や障がいや差別の苦しみから解放されたら、今度は差別する側になってしまう、という可能性はいつもあると思います。
たとえ、癒されたとしても、苦しみの記憶は忘れてはいけないのでしょう。そして、自分が癒されたといっても、それで問題が終わったわけではないのだということを認識しないといけないでしょう。
しかし、じっさいに病に苦しんでいる者にとって「今が一番いいかもしれない」ということは言えないと思います。病気の苦しみそのものからは、やはり解放されたいと思いますし、医療がそれに手を貸せるのなら、手を貸してほしいと思います。
大事なことは、ある病気を病んでいるとき、その人は自分の病気だけを苦しんでいるのではなく、同じ病をかかえた人びとといっしょに苦しんでいるということ、そして、たとえ自分個人の症状が軽減されたからと言って、同じ病を抱えている人と「共に担っている苦しみ」が終わるわけではないのだ、ということなのではないでしょうか。
Posted by: 牧師 | December 19, 2007 at 00:06
病気の苦痛は甘いものではないと思います。苦痛の軽減を計り、健康回復を計ることについては、私自身も望んでいるところです。
しかし、治らない病気もあります。病気の原因さえ取り除ければ、病気がよくなると分かっていても、その原因は取り除くことが困難な他の要因と絡み合っているという場合もあると思います。「差別」が原因なら、問題は一層ややこしいと思います。
変えようもない過去、病を苦しみつつ未来を変えることのできない自分を責めるより、「今が一番良いかもしれない」との再発見に至れることは、自分自身を見つめ直し、再び出発するための良い機会になるのではと、私は思っていますが、その考えを人に押しつけるつもりはありません。
苦しみを共に担っている仲間の存在を忘れないことは、大事なことです。同時に、実際のつながりは辛いことが多かったと思い起こしたりします。お互いに、手をさしのべさえすれば、と思うのですが、そのようなチャンスは実に少ないように思うのです。
Posted by: kawaranochurch | December 19, 2007 at 01:27
「いまが一番良いかも」といわれると、「おまえはそのまま苦しんでおけばいい」と言われているような気がして、それもちょっとつらかったんですね。
しかしぼくは、治らない病気がある、ということを自分の書き込みのなかでは失念していました。自分の状況が苦しいあまり、「治る」ということに希望を置きたくなるのですね。しかし、そのことが苦しみを共に担っている仲間とのつながりを損ねてしまうのはいやだなぁと思います。
「差別」が原因で起こる病気……ぼくは自分の病気の原因のひとつは差別と少し似た、あるいは差別を打ちに秘めた「孤立」が原因だと思っていますが、この状況を理解してくれる仲間が何人もいるので、それで助かっているという面はあります。
Posted by: 牧師 | December 19, 2007 at 22:44
不用意な言葉を使ったために、少なからず傷つけてしまったと反省しています。
「治る」という希望をもって生きる者も、「治らない」けど希望をもって生きる者も、同じ希望をもって生きている者同士として、決して対立するものではないと思っています。
状況を理解してくれる仲間が何人もおられるというのは、本当に喜ばしいことですし、実にうらやましい限りです。
Posted by: kawaranochurch | December 20, 2007 at 00:37
希望ってどこからわいてくるんでしょうね。
「治る」といってもあくまで予想なんで、すぐに治るとは限らないんですが、まぁそれでも「治りますよ」と医師などに言われると、それを根拠に希望を抱くということはありますよね。
「治らない」けど、希望をもって生きる、というのは、その希望はどこから来るんでしょうか。
つながっている仲間がいるから、そこに希望があるのでしょうか。
ぼくは、全く根拠レスに、あっけらかんと希望が生まれることもあるのではないかな、と思うときがあります。いかがでしょうか。
Posted by: 牧師 | December 20, 2007 at 22:17
ちょっと抽象的な話にしすぎたでしょうか? 申し訳ありません。
Posted by: 牧師 | December 20, 2007 at 22:18
私の場合は、病気や差別から、希望がわいてくるように思います。
病気を否定的にとらえたり、差別に負けてしまう現実に囚われてしまったとき、私の内には絶望がわいてきたように思います。
けれども、病気の人が人の命の輝きを教えてくれたり、差別を受けている人が命の暖かさを教えてくれたりする出来事に触れるとき、私は絶望をわき上がらせる間違った考えに囚われていたことに気づくことができたように思います。
ですから、私の場合は、病気や差別から希望がわいてきます。
私が今感じている病気や差別の痛みや苦しみとは、人の命の光や暖かさを希求していくためにあるのかな、と思ったりしています。
三〇番地キリスト教会に通って、色々と教えられ、牧師さんや副牧師さん、また伝道師さんに教えられたところも大きいです。
蛇足ですが、聖書に登場する「罪人」と呼ばれている人たちは、明確な希望をもってイエスに従ったのではないかと受け止めています。
Posted by: kawaranochurch | December 20, 2007 at 23:46
私もこの職業としては向いてないのではないか,という病です。いえ,病でした。実はやっと,病院から開放されました。治ったというわけではないと思います。薬を飲まなくてもよい状態になっただけであり,いつ,また,ぶり返すかもしれません。でも,それでも,いいと思います。それが,上のレスにある「治らなくても希望」という状態なのだと思います。
うまく表現できませんが,「病気をもっていても,私は私」という新たな自己概念が確立されたような気がします。
Posted by: なな | December 23, 2007 at 21:23
なるほど、「病気をもっていても、私は私」ということも言えるでしょうね。
ぼくは、自分の病気のことを自己紹介に含めるときがあります。もちろん受け止めてもらえると思った相手だけにですけど。つまり、病気は自分の個性のなかに含まれているのですね。
「病気を持っているのが、私という人間なのである」ということもいえるんじゃないかなと思います。
ただ、病気や差別の痛みや苦しみが、そのまま人の命の光や温かさを求めていくためにある、という心境にまでは、ぼくはまだちょっと達していません。
やはり痛みは痛み、苦しみは苦しみという風に感じています。自分が苦しんでいる最中、なんとかこの苦しみを誰か軽減してくれと思うしかない自分しかありません。光や温かさを感じる余裕もありません。
Posted by: 牧師 | December 23, 2007 at 23:29