幼児洗礼のような病床洗礼
癌が全身に転移して、余命いくばくもない親父。その親父は、さまざまな金融業者から金を借りまくり、友人からも親戚からも金を借りまくり、返済もめども立たないまま、この世から去ろうとしている。
多くの人に迷惑をかけ、多くの人を傷つけた。多くの人が親父に怒りを抱き、憎しみを抱いている。「このままでは、あの人、地獄に行くしかないで。天国行かれへんで。あんた牧師やったら何とかしたりや」と言う人がいた。
そこで考えた。娘3人に幼児洗礼を授けていただいたときには、「この娘たちが、もし小さい間に事故や病気で死んでしまったら、まっすぐ神さまのもとに行けないのではないだろうか。自分が死んだときあの世で再会できるだろうか」と、案外保守的なことを考えたものだった。そう考えて、本人たちがわけがわかってなかったときに、親の判断で幼児洗礼を受けることをお願いした。
今回、親父は確かに罪深い。天国というものがあるとしたら、たぶんそのまままっすぐには天国には行けないだろう。少なくとも、死ぬまでの間、不安であろう。まだ生きている間に、「イエスは罪人を招いているのですよ、あなたは赦されますよ」と告げることができたら、どんなにいいだろうか。
そう考えたぼくは、息子の判断で、親父に病床洗礼を授けてもらうことに決定した。親父は半分意識がボケていたり、半分しっかりしたりの、行ったりきたりだが、とにかく「親父が天国に行けるように、牧師さんに洗礼さずけてもらうからな」と言い聞かせて、本人の同意を取った。
牧師は病院に一番近い教会の、友人の牧師に来てももらって、お願いした。息子のぼくがやるより、他の牧師さんに来てもらうほうがありがたいではないか。
癌が脳にも転移して、半分意識がぼんやりしているような親父だったが、洗礼式の執行中は、おとなしく手を組んでいた。そして、何度かくり返される祈りで、こっちが教えてもいないのに、「アーメン」と声を発した。すごいもんだなと思った。
それが昨夜の話。今夜、お見舞いに行った弟によると、親父は「おれ、クリスチャンになったらしい」とイタズラっぽく十字を胸の前で切って、笑っていたらしい。
生きている間に、いろいろできることはやっておくもんだな、と思った。
洗礼をさずけてくださった牧師は、そんなひょんな縁から突然お願いしたのにも関わらず、その後、今日も病床訪問してくださっている。本当にありがたいことだと思う。

Comments
私が看護学生のときに教員に噛み付いたひとつの発言があります。「人は生きてきたようにしか死ぬことはできない」とその教員は授業中に発言しました。(以前、お話したことがありますね)
果たしてそうなのか?死はその人の命の終わりであり、幸せな死(ここには深い意味をこめます。ただ単に家族に見守られて死ぬとか、そんなことではありません)は万人に与えられるものではないのか、と。死にゆく過程をみると確かにさまざまなものがあるとはいえますが、でも、私にはその死にゆく過程で「生きてきたこと」が相殺されるとは思えないのです。
いろいろなことをして、周囲の人からみれば許せないこともあるでしょう。でも、「幸せな死」はすべての人に与えられていると思います。
内容がずれてしまいました。ごめんなさい。でも、お父様はきっと、ひとつの安らぎを得られたのではないでしょうか。
どうか、痛みや苦しみが少しでも和らぎますように、お祈りしています。
Posted by: なな | April 04, 2008 at 23:01
ななさん、ありがとうございます。
「生きていたように死ぬ」というのは、なんだか哲学めいていて、ちょっとかっこいい響きがありますよね。だからついついそういうことを言ってみたくなる、というのはあるんじゃないでしょうか。
実際には、私の父は、多くの人から返すあてもなく金を借り、結果的に多くの人を欺くことによって、たくさんの罪を犯した人間です。しかし、死に際は本当に我々家族を思いながら、きれいに死んでいってくれました。その死に様は、罪を赦された人の安心感につつまれたものでした。
ですから、その人がどう生きてきたということに左右されず、人は死ぬ瞬間まで、どんな生き様・死に様をするものか、わからないものだ、と思います。
Posted by: 牧師 | April 09, 2008 at 00:37