いじめに関する報道が続いている。自殺の知らせも相次ぎ、死の連鎖反応を起こしているようだ。
ぼくは、どちらかと言えばいじめられっ子だった。いじめられ体験がたくさんと、いじめた体験が少し。いじめていたときは、明らかに自分がいじめられていた腹いせに自分より弱い人間をいじめていた。だから、いじめている側の人間が、実は他にやりどころのない怒りや鬱憤をためているんだろうということであれば、そういう気持ちはわかるような気がする。
また、いじめる側に加担していないと、自分もまたいじめられるという恐怖があるので、どうしてもいじめられている人を助けられないというのもある。
いじめられている人が、なかなかその事実を人に言えない、というのもわかる。自分がいじめられている、という現実自体を客観的に認めたくないから。それに、そのことをネタに余計にいじめられるのが予想できるから。そして、じっさい相談して事情が好転することがなかなか期待できないのだ。特に集団でいじめられている場合には、そいつらを殺すか、そいつらと会わないようになる時期を待つしか、手がない。
学校というのはそういう意味では、たとえば3年、一貫校なら6年たてば、必ずみんな自分も相手たちも学校を出てゆく。人間関係をつくりなおすチャンスが必ず来るのだ。
ただ、若い人にとっては3年は長すぎるように感じるだろう。それならば、無理に学校に行くこともないと思う。学校に行くことと、生きることとを天秤にかけるんだったら、生きるほうが大事に決まっている。なぜいじめられている側の人間が死ななければならないのだ。いじめる側の人間が死んでしまえばいいではないか。死ぬくらいつらいんだったら、学校なんか休んだほうがいい。周囲の大人たちに警告を発する意味でも、そうしたほうがいいと思う。学校だって大人が作った装置に過ぎないんだから、その装置の中で閉じ込められて死ぬほど苦しむくらいなら、そんな装置から出てしまったほうがいいと思う。
3年というのは、若者にはめちゃくちゃ長く感じるんだろうけど、済んでみると、そして年を取れば取るほど、あっという間のできごとのように感じられるようになってくる。だから、いったん逃げて、それから社会復帰の道をさぐる遠回りの道をたどっても、決して悪くないと思うし、寄り道していろんな違う世界を見るようにすれば、案外貴重な人生体験をすることができるかも知れない。
ぼくは小学校でもいじめられていたし、中学校でもいじめられていたし、高校でもいじめられた。大学になると、さすがにみんな自分のことで忙しくって、いじめたりいじめられたりという密着した関係から解放されて、すいぶん楽になった。だから、自殺なんかするのはもったいない。生き延びたほうが絶対得だと確信した。
自殺の連鎖が起こっているのが悲しくて仕方がない。
絶対に長生きしたほうが得なのだ。いじめているやつが先に死んで、自分のほうが長生きすれば、絶対に自分の勝利なのだ。これは、あとで書くつもりだけど、ぼくをいじめた牧師たちのことを考えると本当にそう思う。
小学校から高校まで、もっぱらいじめられ体験が続いたし、これは私学に入学して人間関係が変わったはずなのに、相変わらずいじめられっ子であったということで、やはりいじめられやすい子というのはいるものだ、と思う。
けれども、それはいじめられる子に原因があるというのではない。
そうではなくて、単に個性が強かったというだけのことだ。
日本の社会は同質化を強く求める社会で、群集心理に乗れないような人間を強烈に排除しようとする。そして、誰か少数派を排除することによって、全体の団結をはかってきたのが日本社会なのだ。
世の中にある差別事件の事例を当たってみたらすぐわかる。部落差別、障がい者差別、ハンセン病者差別、同性愛者差別、在日朝鮮・韓国人差別、失業者・野宿者差別……あげだしたらきりがない。
「あいつらよりも自分はましだ」、「あいつらがあんな目にあっているのは自業自得なんだ」という差別的な心理で少数の人々を見下すことで、政治や社会への不満を解消してきたのが日本人の精神構造なのだから、はっきりいってこの差別的ないじめの心理を、国家も行政もじゅうぶん利用してきたはずなのだ。差別がなくなると困るのは権力者なのだ。
大人がそういう差別やいじめを利用して国民の団結を図ったり、鬱憤の解消をしてきたりしているのだから、子どもがその真似をしても当たり前ではないかと思う。いじめが、すっかり定着した文化になってしまっているのだ。
いじめられる側に原因があるのではない。少し「変わったやつ」を見つけ出して徹底的に攻撃することで、その他大勢の人間が孤立せずにすむようにもたれあう、そういう精神的に自立できていない人々の集まりのほうに責任があるのだ。
高校時代のある日、こんなことがあったのを憶えている。ぼくが後ろを通っただけなのに、「頭をさわりやがった」と激昂して暴力をふるってきた奴がいた。学年で一、二を争うほどの腕力の持ち主で凶暴な男だった。ぼくはいじめられることになれていたので、勝手にしろという態度で、成り行きに任せていた。すると、あまりにぼくの反応があっさりしているので、彼は殴るのをやめてしまった。「なんでおまえは抵抗せんのや」と言う。ぼくは「おれは殴るのも殴られるのもいやなだけなんや。殴りたかったら殴れ。おれは何もせん」と言った。すると、彼は「そうか。殴るのも殴られるのもいやなんか」と、きょとんとして言った。「おれはお前の頭はさわってない。でもおまえはさわられたように感じたんやろ。でも本当にさわってない。それでおまえがおれを殴っても、おれは本当のことを言うだけ」とぼくは言った。すると、彼はぼくの胸ぐらをつかんでいた手を放してくれた。「そうか。わかった」。その後、なんとなく彼とはお互いに廊下で会っても、お互いに会釈をするようになり、彼は決してぼくには突っかかってこなくなった。あれは一体なんなんだろうと今でも思うけど、あれ以来、人というのは話をすれば案外通じるもんだな、という感覚を持ったような気がする。
案外、ああいう一匹狼の凶暴な人間に見えるやつのほうが、話が通じるのかも知れない。一匹狼は本人も本人なりに孤独のなかでいろいろ考えているのだ。
困るのは集団で群れて一人をいじめようとする奴だ。
これも高校時代だが、自主映画製作に凝っていた頃だ。ぼくは学校から予算をもらって映画を作るというのが性に合わなかった。バンドでも映画製作でもそうだが、学校に隠れてでもバイトして自分でお金を作って、そして好きなものを作るというほうが好きだった。
一方、学校のクラブとして映画研究部なるものが存在していた。ぼくはそれに対抗する独立系のプロダクションだったわけだ。すると映画研究部は、自治会をまきこんでぼくらのプロダクションをつぶそうとした。ある日、自治会室に呼びつけて、ぼくは5-6人の自治会役員と映画研究部長に取り囲まれ、非公認団体の出展を取りやめるように圧力をかけられた。
このように高校生くらいになってくると、いじめも組織化し、ちょっと高度になってきて、いじめた側が決して悪くないように工作するようになる。
しかし、まあおかげでいい勉強になった。以後、ぼくは集団というものを、心底からは信じなくなった。
いじめというのは子どもだけのものじゃない。大人になってからも経験した。
ただ、会社勤めをしていたときは、不思議といじめたりいじめられたりという経験は記憶してない。ぼくが勤めていた会社は、稼いだ人がえらい人、稼げない人は駄目な人、それだけしか人物評価がなかったから、ある意味さっぱりしていた。それに人をいじめたりしているヒマなんかなかった。その反面、大きなシステムを売る会社でもあったから、絶対にチームワークは必要だった。だから会社時代のことで悪い思い出はほとんどないなぁ。思い出せない。感謝することばかりだ。
今でも腹が立つのは、離婚したときに恩師であったはずの牧師たちから脅迫といやがらせと拒絶を受けたことだ。この牧師たちは、自分がフェミニストで女性の味方であり、自分は妻を大切にしているということを公私共にアピールするために、ぼくの離婚というスキャンダルを利用した。ぼくを攻撃すれば、自分が女性の味方であるかのようにアピールすることができたのだ。今思えば馬鹿みたいだけど。ふだんから本人達が決して女性の味方とは言えないようなライフスタイルをとっていただけに、余計にぼくのスキャンダルは格好の餌食となった。
しかし、この場合も、相手のほうが歳を取っていたことがぼくには幸いだった。今やこの牧師たちの1人は歳をくった上に不摂生がたたって引退している。ざまあみろと言えば、自分でも牧師にあるまじき発言かな、とも思うが、正直この人の早い引退を聞いたときはそう思った。やっぱり健康に気をつけて長生きしなきゃ。自分をいじめた奴が死んでも、こちらはのびのび生きていくくらいでないと割りに合わない。今では、恨みはほとんど消えて、憐れみのほうが大きい。
牧師だとか、宗教家だとか、いじめの場合は関係ない。むしろ、ふだん偽善的に装って生きている分、自分の中に矛盾がたまっているから、いざ餌食になる人間が目の前に現れると、何をやりだすかわからないものだ。
だらだらと書いているから、まとまらないが、本当に耐え切れなくなったときは、死ぬ前に、避難することを勧めたいと思う。相手が1人で、話してわかるやつなら話せばいい。相手が1人で、話がわかりそうにないやつなら、もっとうわ手をゆくような反撃に出ればいい。しかし、多勢に無勢で人数でかなわないときは、被害を受け続けて死ぬような思いをするくらいだったら、逃げたらいいと思う。
世の中は、学校なんかよりずっと広くて面白いから、他の世界を見てみるのもありだと思う。
また、これから大学なんか全入時代が来るから(来年からそうらしい)、大学はどこも学生集めに必死だ。中学や高校生活で多少挫折があっても、受け入れてくれる大学はきっと出てくるはずだと思う。
それまでに、学校を休んで、旅をしてみたり、アルバイトをしてみたりすると、自分の世界が広がってきて、案外外にも面白いものが発見できるはずだと思う。
そのためにも、教師も親も、本人を、なにがなんでも安定した学校生活に引き戻さなくては、という思い込みから解放されていないといけないと思う。
それから、もしも1人でも話せる友を見つけることができたら、幸せなことだと思う。
ぼくは、中学から高校にかけて、たった1人だけ本心を明かせる友だちを見つけることができた。それが救いになって、ぼくは学校生活を続けることができていたと思う。その人とは今でも親友のつもりだ。
一生のうちでそんなに信頼できる友だちなんて、1人見つけることができれば幸せだと思う。だから1人でもいいからそういう人を見つけるようにしてほしいと思う。
学校の中でなくてもいいから。歳が離れていてもいいから。
なんかまとまらないけれど、いじめについて何か書いてみようと思ったら、いろいろ出てきた。まだ語り足りないこともあるけれど。
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