関西学院初等部に行きました。

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去る2月23日(土)、4月開校する関西学院の小学校を見学させてもらいました。
「新しい学校を一から作ると、トータル・デザインできるんだ」と、校長のI先生が夢一杯の教育論をお話してくれました。
机もいすも、すべて木製。黒板の代わりに電子ホワイトボード。教室の壁は全面コルクになっていて、いろんなものを掲示できる、まるでアメリカの学校みたいにデコレーションできるようになっていました。
礼拝堂は、硬い木製のいすでした。これがいいんです。これでは居眠りできない。ぼくが勤めている学校では、いすのすわり心地が良すぎるので、全身でもたれかかって、仰向けになって居眠りする子が多いです。そうじゃない。背筋がピンと張る硬いいすでいいんです。そして、パイプオルガンも。20080223kgp2po

新しい学校には夢やビジョンがあるし、何を見ても新品できれいだし、いいなぁと、少しだけ羨ましくなりました。

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まるつけ

テストの採点のことを「まるつけ」と呼ぶことがある。
たくさんの○をシャッシャッとつけていくのは爽快だ。しかし、ときどき勢いで間違っている答案にまで○をつけてしまうときがある。これを訂正して×にするのは、はっきり言って気が滅入るし、返してもらった生徒も気分が悪いだろうと思う。
そんな話をある生徒たちとしゃべっているときにしたら、「そんなの先生、最初から全部マルでいいじゃないですか。難しく考えなくてもいいですよ。全部マル、マル!」と口々に言う。そりゃあ君たちにとってはそのほうがいいだろうけどね……。全部○でもおかしくないような簡単な問題を出してるんだから、その期待に応えてよ、と思う。
点数が低い生徒が続出すると、自分の教え方が悪かったんじゃないかと心が痛む。いや事実そうなのだろう。生徒の点数は、先生の成績でもあるのだ。

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点灯式

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勤め先の学校で、クリスマス・ツリーの点灯式を行ないました。
アドヴェントにはまだ早いのですが(今年は12月2日から)、学校はクリスマスより前に終業式がやってきてしまうので、アドヴェントもクリスマスも、半月ほど前倒しのスケジュールにしているのです。
クワイア(聖歌隊)もこの日が晴れ舞台。思ったより大勢の生徒たちがぎっしり集まる中、緊張しながらも4曲ほどクリスマスの歌を合唱しました。この合唱への拍手がうれしかった。
またお祈りは先生ではなく、聖歌隊のなかから代表がお祈りをしたところ、みんなが「アーメン」と言ってくれました。ふだん先生が祈っても、だーれも何も言わないのにね。生徒のお祈りのほうがいいに決まってますね。
ツリーが点灯した瞬間は「ウォーッ!」と歓声がわきました。キリスト教の学校だからということで、特別にてっぺんの星を十字架型にしてくれた、特注のツリーです。
「これって普通の学校にはないよね~」と喜ぶ声も聞こえました。ツーショットで写真を撮るカップルまで現れ、「いいなぁ、二人で写りたいな~」ともらす声もちらほら。
そんなわけで、クリスマス・ツリーの点灯式は成功のうちに終わりました。

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文化祭~美女で野獣

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今日は勤め先の学校の文化祭でした。顧問をしている演劇部が『美女と野獣』を公演し、まずまずの成功をおさめました。
正直、春に、文化祭の演目を『美女と野獣』にします、と生徒たちから聞いたときは耳を疑いました。「マジで?」
ブロードウェイのミュージカルで、劇団四季も上演してて、それを見た生徒も何人もいて、それでも、やりたい。ぼくの頭の中では、「あのNASAの技術をも駆使したといわれる野獣から王子への変身は、どうやって表現するつもりなんだろう?」、「細身の女子ばかりの部員で、唯一の男子もまだ幼い中学2年生ときている。いったい誰が屈強な筋肉男ガストンを演じるんだぁ?」と不安が渦巻いていたのでした。
しかし、生徒たちはやってくれました。
ガストンの役柄を変えて、ナルシストで神経質な男に変更。野獣も高3最高学年の部長が扮し「美女で野獣」にしてしまいました。クローゼットや時計や燭台やカップという、ちょっと変わった衣装づくりにもチャレンジ、おまけにダンスや歌にも挑戦……と、何から何まで手づくりで、初めてのことにも果敢に取り組み、この世にひとつしかない同志社香里版の「美女と野獣」を作り上げたのでした。
なんとも、今日のビールはうまいものです。
まぁ、顧問のぼくは、実はなんら手を貸さなかったんですけどね。ぼくは合宿の会計をやったり、買出しの運転手をしたりしていただけです。生徒が自分の力で、自分のアイデアを形にする。ここがすばらしい(いるだけ顧問の言い訳かな(笑))。

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卒業生

この3月に卒業して、国際基督教大学(ICU)に入学して3ヶ月たつ教え子が、突然職場を訪ねてきてくれた。とてもうれしかった。話したいことがいっぱいある感じだったけど、とにかくICUの教育が彼女には合っているようだった。
少人数の学生を、手厚くクリスチャンの教員たちが包んで、きめ細かくていねいに指導してゆく。クリスチャン・ウィークという行事には、教員の家に学生が招待されて、パーティをしたりしている。
少数精鋭の学生に目が行き届く環境で、教育が行われているという面は、以前に見学したアーモスト・カレッジと似たところがあるな、と感じた。どんなに有名な大学でも、マンモス教育で教授が学生ひとりひとりの顔も名前もつながらない、というようなところにはない、いい環境があるようだ。
若く、エネルギーに満ちていて、今やっていることも手一杯だけど、まだまだやりたいことがいっぱいで。そんな卒業生がまぶしく見えた。
とてもうれしかった。

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日本人の罪意識

勤め先の学校で、「お祈り」の仕方を指導することがある。「お祈りのパターン」というプリントを配っているのだが、そこに、お祈りの3要素として「悔い改め」「感謝」「願い」をあげており、それぞれの具体的な内容については生徒ひとりひとりが自分で考えてみよう、という風にしている。
ここで多くの生徒がつまずくのが、「悔い改め」だ。何を悔いたらいいのか、何を反省したらいいのか、わからないというのである。自分は何も悪いことをしていないのに、というわけだ。これに比べて、「感謝すべきこと」、「お願いしたいこと」というのは、すぐに思いつく人が多い。
祈りの3要素というのはうちの学校オリジナルなので、神学的に賛否はあるだろうが、それはともかくとして、子供たちに「悔い改め」という概念を根付かせることは困難だと思う。ルース・ベネディクトの有名な『菊と刀』では、日本人は罪の文化ではなく、恥の文化に生きているといわれているそうだが、まさに日本人の子どもたちに「神に対する罪」という概念を伝えるのは難しいと思う。
もちろん、罪意識を常に持つことが人間としてよいことかというと、そうとも言い切れないとは思うけれども。
欧米のキリスト教の歴史のなかで伝えられてきた「神に対する罪意識」の背後には、父権制の暴力が通奏低音のように流れており、その社会に生まれた人はみな幼い頃から体罰や心理的虐待を受けて、潜在的に罪意識を植え付けられるようにになったのではあるまいか。
そういう観点から見れば、過剰な、あるいは不当な罪意識を自分のなかに持っていない子どもというのは、実は意外と健全なのかもしれない、と思ったりもする。

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アンドーヴァー

マサチューセッツ州の北東部にある、アメリカでも有数の名門高校、フィリップスアカデミーを訪問してきました。同志社の創立者が鎖国中に国禁を犯してアメリカにわたり、最初に学ぶことになった学校です。
あんまりうれしくはないけれど、ブッシュ大統領親子も、このアンドーヴァに学んだらしい。ちなみに先の選挙でブッシュに負けたケリーもここの出身らしい。要するに、大金持ちのおぼっちゃんやおじょうちゃんが学ぶ学校です。在学している生徒たちも、どことなく余裕のある顔つきをしている。授業料だけで日本円にして400万円はかかるらしい。テキスト代や諸経費は別。
でも、先生は大変だと思いました。教員はみんな学校の周りにある教師館に住んでいて、8時から10時までは、生徒も自由に教員の家を訪ねて勉強を教えてもらったり、相談にのってもらったりしていいということになっているそうです。「いわば、学校全体がビッグファミリーですね。わっはっはっは」と笑っている。そんな学校。
生徒数は約1600名、やはり広大な敷地にポツンポツンと建物が建つばかり。ゆったりした環境。セキュリティなんてあってないような平和な田舎町。教育には最高の環境ですね。
高校なのに、数学館、生物学館、ホッケーリンクまである。アメリカ最高の高校と自分の学校を比べちゃいけないけど、ため息が出ますね。

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アーモスト

今日からボストンに入りました。
昨日までは、マサチューセッツ州中西部にあるハドリーという街に泊まっていて、そこからアーモスト大学を訪問しました。
アーモスト大学の日本語クラスの学生さん達と一緒にこちらの生徒達もクラスに入り、お互いに日本語で話しかけあったり、英語で話しかけあったり、という会話のゲームをしました。
学生にゲーム感覚で授業に導入させ、主体的に取り組ませる事で頭を最大限に使わせるようにもっていくやり方は、とても参考になりました。
アーモスト大学は同志社の創立者、新島襄が在学したところなので、こうして交流を持たせてもらっているのですが、その教育内容の贅沢さといったら、日本のたいていの大学のおよぶところではありません。
広大な敷地にポツン、ポツンと建物があるゆったりしたキャンパス、見渡す限りのグラウンド、少人数制が徹底したクラス運営など、うらやましい限りです。
全体でたった1600名くらいしか学生がいない。それでこの広大な大学が維持できている、ということは、当然高学費です。年間、日本円で500万円ちかくの学費がいるそうです。それだけの学費が払える裕福な家庭の子どもだけが入れる名門校というわけです。それを考えると、貧富の差が教育の差に直結し、それが再び貧富の差に循環してゆくという問題を目の当たりに見ているような気もします。
この状況に比べたら、日本の「格差」など、序の口だという気さえしてきます。しかし、いずれ日本もそんな風になっていくのかもしれません。

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卒業式

今日は、職場の高校の卒業式がありました。
顧問をしている聖歌隊でも演劇部でも、これまででいちばんといっていいほどの個性派ぞろいでエネルギッシュなメンバーがそろっていた学年でした。
うれしかったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、教師としてのぼくの至らなさを思い知らせてくれたのも、この人たちでした。たくさんのことを学ばせてもらったと思います。教師は子どもによって育てられるんだな、と思います。
きっとこの人たちは、元気に生きていってくれるだろう。どんな困難があっても戦って生き抜いていってくれるだろう。そんな風に信頼できる人に成長してくれました。
そんなそれぞれの魂が、新しい世界に旅立ってゆく。これはうれしい別れです。
卒業式では、宗教主任として、聖書朗読と祈祷をするのがぼくの役割でした。祈りの言葉ひとつひとつに、彼ら彼女らがこれからの前途を幸福に生きていってくれるように、と願いをこめました。神さまが一人ひとりを導いて守ってくださいますように、心から祈ります。アーメン。

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愛国心

ふだんの言動からして、愛国心という言葉に拒否反応を示すタイプの人間のように思われがちなぼくだとは思うけれども、よく考えてみると、やっぱり自分にも愛国心はあると思う。日本という場所が好きで、日本の自然や風景が好きで、日本食が好きで、日本語を話して暮らす生活に居心地よさを感じている。
いま全国の学校の生徒に配られている「心のノート」では、郷土愛から愛国心へと誘導しようとしている、ということが指摘されているが、郷土愛に根ざすような愛国心なら、ぼくだって持っていると思う。

愛国心があるから政府の言いなりになる、というのは間違っていると思う。ぼくの政府に対する不信感は相当なものだ。しかし、政府が嫌いだからと言って、日本が嫌いというわけではない。
また、愛国心があるからと言って、日本が最高で他の国や民族よりも優れている、というのも間違っていると思う。日本には日本のよさがあるが、他の国や民族の文化にも、それぞれよさがあり、みなお互いにそれらを尊重するべきだし、異文化に触れたり、影響を与え合ったりということは楽しいことだと思う。
愛国心があるから軍事行動に協力する、というのも間違っていると思う。本当の平和や防衛というのは、戦争を回避する外交努力と、互いの文化や文明を尊重しあい交流を持つことで戦う必要をなくすることだと思う。自国を愛し、他国をも愛するからこそ、あえて軍事行動には賛同しないという選択もありうると思う。

だいいち、政府の人びとや都知事などが「愛国心、愛国心」と騒ぐわりには、本当に彼らが国を愛しているのか、まゆつばものだと、ぼくは正直に言って思っている。
「公共心を育てろ」とか「愛国心を育てろ」などと言っているのなら、どうしてもっと国内の農業従事者が元気になるような政策をとらないんだろうか。また、全国的に低農薬・無農薬の食品を作る産業を育て上げ、ファストフード店に子ども向けに売ることを規制し、日本の子どもたちが本当の意味で健康を取り戻すような政策をとらないんだろうか。あるいは、どうして子ども向けのおもちゃを売っている業界に対して、「一切子ども向けのゲーム機は作るな」と命令しないんだろうか。どうしてテレビ局に対して、ナンセンスで人を貶めるようなギャグで笑いをとるような番組ばかり垂れ流すのをやめろと命令しないんだろうか。
いま日本の子どもたちは、かなりの割合の子がアレルギーで体を破壊され、ゲーム漬けで前頭葉が働かず発達障害を抱えた子がわんさかあふれ、人の話も黙って座って聴けないような子ばかりになってきている。これは、右翼政治家たちが言うように「教育基本法で個人の尊厳を認めたから、子どもがわがままになった」のではなく、日本の産業構造が子どもを食い物にするようになったから、不健康で運動不足で利己主義で功利主義で集中力がない子どもや、発達障害をかかえた子どもがあふれかえるようになったのだ。
子どもを食い物にして大もうけしている大企業を保護しておいて、あとは学校に愛国心教育をやらせれば、公共心や愛国心が育つだろうなんて、考えが甘いもはなはだしい。いくら頭ごなしに愛国心を強制しても、子どもを食い物にしながらもうける産業が滅びないかぎり、子どもの利己主義と功利主義は止まらないだろう。
つまり、この国の右翼政治家による愛国心教育は、自らつまづいて破綻するだろうと思う。
でも、この国の右翼政治家たちは、本当の意味での愛国心がないので、本当の意味で強くて、健康で、公共心を大切にする子どもを育てることには関心がない。そんなことよりも、自分たちの政治的な命令に従順な国民を作りたいだけなのだろう。つまり、それは本当の愛国心ではなく、ただの支配欲なのだ。
そんな亡国の政治家に比べれば、よほどぼくのほうが愛国心があるのではないか、と思いたくなる。
ぼくは、この国が本当に滅んでしまうのではないか、と憂国の情でいっぱいだ。

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若王子山上の早天祈祷会

同志社には年に2回、京都は若王子山頂の同志社墓地で、早天祈祷会をおこなう日がある。11月29日の創立記念日と、1月23日の創立者(新島襄)永眠記念の日だ。この日は全同志社の有志の教職員、学生、生徒が集まり、新島襄をはじめとする同志社草創期の人びとの墓前で、礼拝をおこなう。
早朝(といっても7時だけれど)の身の引き締まる寒さのなかでおこなう礼拝は、すがすがしくて気持ちがよい。毎回これに参加するのを楽しみにしている。礼拝が終わって山を下り、ふもとの若王子神社境内でふるまわれる温かいうどんやそば、そしてぜんざいも格別にうまく感じる。これに神社が協力してくださるというのも、たいへんありがたいことだと思う。20061129nyakuouji20061129nyakuouji220061129nyakuouji3


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こころ

昨夜、小学校1年生の娘が、ぶつぶつ言っているので「なになに?」と聴いてみた。すると、学校の友だちから「心なんかないやん。どこにあんねん。見せてみい」とからかわれたらしい。
うちには3人娘がいるが、特にこの子は「心」に関する発言が多い。先日、授業参観に親が仕事で行けないと聞くと、「あたしの心はぐちゃぐちゃに壊れてしまった。どうなるの~」と泣き出すような子だ。
たぶん、この日も何か本人なりに不本意なことか悲しいことがあって、「心が痛い」とか「心が壊れる」というようなことを言ったみたいだ。すると、友だちにピシャリと「心なんかどこにあるんや。心なんかないわ!」とやられたようなのだ。
それで家に帰ってから、もう寝ようかという時間になっても、「心ってないの? ないんや……」とぶつぶつ言っていたのである。
我々両親はそろって懸命に「心はある」、「形はないけれども、たしかにある」と説得し始めた。
「うれしいと思うことあるか?」
「ある……」
「かなしいと思うことあるか?」
「ある……」
「じゃあ、それはあなたに心があるということやんか」
「……心が病気になることある?」
「あるよ」
「じゃあ、どこを治すの? どこを切って治すの? どこに絆創膏はるの? どこに薬つけるの? 心なんかどこにもないやんか。心はどこにあるのよ」
「心は体全体にやどってる。いちばん大きな働きをしているのは脳みそだけど、でも体全体にうっすらしみこんでるんや。そして心が病気になったときには、心の病気を専門にしているお医者さんがいるから、そこで話を聴いてもらったり、お薬をもらって飲んだりして、治していくんやで。心を専門にしているお医者さんがいるくらいやねんから、心はたしかにあるんやで」
そうしたら、娘は黙り込んだ。
黙り込んだので、ゆっくりと持ち上げて、抱きしめてあげた。体全体の力が抜けたようで、手足をだらんと下げて、いつものように抱きついてこようともしない。しかし、しばらく抱きしめたまま時間がたつうちに、しくしくと涙を流し始めた。
「ほら、泣いてる。悲しいことがあったんや。悲しいと感じてるってことは、心がある、ということや」
「だって、○○ちゃんに言われたときには、悲しいなんて思わなかったもん。涙も出んかったもん。だから心なんかないんや」
「そうじゃない。あまりに悲しいことや思ってもみなかったことを言われると、心というのはカチーンと固まって、どうしていいかわかんなくなるもんなんや。でも、こうして、あとからだんだん悲しかったことがわかることもあるんや。今涙が出てるのは悲しかったからや。悲しいと思う心があなたにあるからやねんで」
娘はえーんえーんと次第に大きな声で泣き始めた。そして、だんだんと体中で抱きついて甘えてくるようになった。昼間からずっと抑圧していた心理がほぐれ始めたのだろう。
そして、やがて泣き止んで、落ち着いて、歯を磨いて、寝床についた。
1年生の割には、「心」に敏感なこの娘。これからいっぱい傷つけられていくんだろうな、と思う。その傷を癒しながら、それに負けない「心」を育てていくのって大変だなぁと思った。
傷つけた側もいじめたなんて気持ちはさらさらないんだろう。むしろ、「心なんか、どこにあんねん。見してみい!」というような言葉を発する1年生もまたかわいそうだなと思う。
「心」も「神」といっしょで、見えないもの。見えないものだけど、たしかにある。だから喜んだり、悲しんだり、愛したり、憎んだり、元気になったり、病んだりするものなのに。

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いじめ

いじめに関する報道が続いている。自殺の知らせも相次ぎ、死の連鎖反応を起こしているようだ。
ぼくは、どちらかと言えばいじめられっ子だった。いじめられ体験がたくさんと、いじめた体験が少し。いじめていたときは、明らかに自分がいじめられていた腹いせに自分より弱い人間をいじめていた。だから、いじめている側の人間が、実は他にやりどころのない怒りや鬱憤をためているんだろうということであれば、そういう気持ちはわかるような気がする。
また、いじめる側に加担していないと、自分もまたいじめられるという恐怖があるので、どうしてもいじめられている人を助けられないというのもある。

いじめられている人が、なかなかその事実を人に言えない、というのもわかる。自分がいじめられている、という現実自体を客観的に認めたくないから。それに、そのことをネタに余計にいじめられるのが予想できるから。そして、じっさい相談して事情が好転することがなかなか期待できないのだ。特に集団でいじめられている場合には、そいつらを殺すか、そいつらと会わないようになる時期を待つしか、手がない。

学校というのはそういう意味では、たとえば3年、一貫校なら6年たてば、必ずみんな自分も相手たちも学校を出てゆく。人間関係をつくりなおすチャンスが必ず来るのだ。
ただ、若い人にとっては3年は長すぎるように感じるだろう。それならば、無理に学校に行くこともないと思う。学校に行くことと、生きることとを天秤にかけるんだったら、生きるほうが大事に決まっている。なぜいじめられている側の人間が死ななければならないのだ。いじめる側の人間が死んでしまえばいいではないか。死ぬくらいつらいんだったら、学校なんか休んだほうがいい。周囲の大人たちに警告を発する意味でも、そうしたほうがいいと思う。学校だって大人が作った装置に過ぎないんだから、その装置の中で閉じ込められて死ぬほど苦しむくらいなら、そんな装置から出てしまったほうがいいと思う。
3年というのは、若者にはめちゃくちゃ長く感じるんだろうけど、済んでみると、そして年を取れば取るほど、あっという間のできごとのように感じられるようになってくる。だから、いったん逃げて、それから社会復帰の道をさぐる遠回りの道をたどっても、決して悪くないと思うし、寄り道していろんな違う世界を見るようにすれば、案外貴重な人生体験をすることができるかも知れない。

ぼくは小学校でもいじめられていたし、中学校でもいじめられていたし、高校でもいじめられた。大学になると、さすがにみんな自分のことで忙しくって、いじめたりいじめられたりという密着した関係から解放されて、すいぶん楽になった。だから、自殺なんかするのはもったいない。生き延びたほうが絶対得だと確信した。
自殺の連鎖が起こっているのが悲しくて仕方がない。
絶対に長生きしたほうが得なのだ。いじめているやつが先に死んで、自分のほうが長生きすれば、絶対に自分の勝利なのだ。これは、あとで書くつもりだけど、ぼくをいじめた牧師たちのことを考えると本当にそう思う。

小学校から高校まで、もっぱらいじめられ体験が続いたし、これは私学に入学して人間関係が変わったはずなのに、相変わらずいじめられっ子であったということで、やはりいじめられやすい子というのはいるものだ、と思う。
けれども、それはいじめられる子に原因があるというのではない。
そうではなくて、単に個性が強かったというだけのことだ。
日本の社会は同質化を強く求める社会で、群集心理に乗れないような人間を強烈に排除しようとする。そして、誰か少数派を排除することによって、全体の団結をはかってきたのが日本社会なのだ。
世の中にある差別事件の事例を当たってみたらすぐわかる。部落差別、障がい者差別、ハンセン病者差別、同性愛者差別、在日朝鮮・韓国人差別、失業者・野宿者差別……あげだしたらきりがない。
「あいつらよりも自分はましだ」、「あいつらがあんな目にあっているのは自業自得なんだ」という差別的な心理で少数の人々を見下すことで、政治や社会への不満を解消してきたのが日本人の精神構造なのだから、はっきりいってこの差別的ないじめの心理を、国家も行政もじゅうぶん利用してきたはずなのだ。差別がなくなると困るのは権力者なのだ。
大人がそういう差別やいじめを利用して国民の団結を図ったり、鬱憤の解消をしてきたりしているのだから、子どもがその真似をしても当たり前ではないかと思う。いじめが、すっかり定着した文化になってしまっているのだ。
いじめられる側に原因があるのではない。少し「変わったやつ」を見つけ出して徹底的に攻撃することで、その他大勢の人間が孤立せずにすむようにもたれあう、そういう精神的に自立できていない人々の集まりのほうに責任があるのだ。

高校時代のある日、こんなことがあったのを憶えている。ぼくが後ろを通っただけなのに、「頭をさわりやがった」と激昂して暴力をふるってきた奴がいた。学年で一、二を争うほどの腕力の持ち主で凶暴な男だった。ぼくはいじめられることになれていたので、勝手にしろという態度で、成り行きに任せていた。すると、あまりにぼくの反応があっさりしているので、彼は殴るのをやめてしまった。「なんでおまえは抵抗せんのや」と言う。ぼくは「おれは殴るのも殴られるのもいやなだけなんや。殴りたかったら殴れ。おれは何もせん」と言った。すると、彼は「そうか。殴るのも殴られるのもいやなんか」と、きょとんとして言った。「おれはお前の頭はさわってない。でもおまえはさわられたように感じたんやろ。でも本当にさわってない。それでおまえがおれを殴っても、おれは本当のことを言うだけ」とぼくは言った。すると、彼はぼくの胸ぐらをつかんでいた手を放してくれた。「そうか。わかった」。その後、なんとなく彼とはお互いに廊下で会っても、お互いに会釈をするようになり、彼は決してぼくには突っかかってこなくなった。あれは一体なんなんだろうと今でも思うけど、あれ以来、人というのは話をすれば案外通じるもんだな、という感覚を持ったような気がする。
案外、ああいう一匹狼の凶暴な人間に見えるやつのほうが、話が通じるのかも知れない。一匹狼は本人も本人なりに孤独のなかでいろいろ考えているのだ。

困るのは集団で群れて一人をいじめようとする奴だ。
これも高校時代だが、自主映画製作に凝っていた頃だ。ぼくは学校から予算をもらって映画を作るというのが性に合わなかった。バンドでも映画製作でもそうだが、学校に隠れてでもバイトして自分でお金を作って、そして好きなものを作るというほうが好きだった。
一方、学校のクラブとして映画研究部なるものが存在していた。ぼくはそれに対抗する独立系のプロダクションだったわけだ。すると映画研究部は、自治会をまきこんでぼくらのプロダクションをつぶそうとした。ある日、自治会室に呼びつけて、ぼくは5-6人の自治会役員と映画研究部長に取り囲まれ、非公認団体の出展を取りやめるように圧力をかけられた。
このように高校生くらいになってくると、いじめも組織化し、ちょっと高度になってきて、いじめた側が決して悪くないように工作するようになる。
しかし、まあおかげでいい勉強になった。以後、ぼくは集団というものを、心底からは信じなくなった。

いじめというのは子どもだけのものじゃない。大人になってからも経験した。
ただ、会社勤めをしていたときは、不思議といじめたりいじめられたりという経験は記憶してない。ぼくが勤めていた会社は、稼いだ人がえらい人、稼げない人は駄目な人、それだけしか人物評価がなかったから、ある意味さっぱりしていた。それに人をいじめたりしているヒマなんかなかった。その反面、大きなシステムを売る会社でもあったから、絶対にチームワークは必要だった。だから会社時代のことで悪い思い出はほとんどないなぁ。思い出せない。感謝することばかりだ。
今でも腹が立つのは、離婚したときに恩師であったはずの牧師たちから脅迫といやがらせと拒絶を受けたことだ。この牧師たちは、自分がフェミニストで女性の味方であり、自分は妻を大切にしているということを公私共にアピールするために、ぼくの離婚というスキャンダルを利用した。ぼくを攻撃すれば、自分が女性の味方であるかのようにアピールすることができたのだ。今思えば馬鹿みたいだけど。ふだんから本人達が決して女性の味方とは言えないようなライフスタイルをとっていただけに、余計にぼくのスキャンダルは格好の餌食となった。
しかし、この場合も、相手のほうが歳を取っていたことがぼくには幸いだった。今やこの牧師たちの1人は歳をくった上に不摂生がたたって引退している。ざまあみろと言えば、自分でも牧師にあるまじき発言かな、とも思うが、正直この人の早い引退を聞いたときはそう思った。やっぱり健康に気をつけて長生きしなきゃ。自分をいじめた奴が死んでも、こちらはのびのび生きていくくらいでないと割りに合わない。今では、恨みはほとんど消えて、憐れみのほうが大きい。
牧師だとか、宗教家だとか、いじめの場合は関係ない。むしろ、ふだん偽善的に装って生きている分、自分の中に矛盾がたまっているから、いざ餌食になる人間が目の前に現れると、何をやりだすかわからないものだ。

だらだらと書いているから、まとまらないが、本当に耐え切れなくなったときは、死ぬ前に、避難することを勧めたいと思う。相手が1人で、話してわかるやつなら話せばいい。相手が1人で、話がわかりそうにないやつなら、もっとうわ手をゆくような反撃に出ればいい。しかし、多勢に無勢で人数でかなわないときは、被害を受け続けて死ぬような思いをするくらいだったら、逃げたらいいと思う。
世の中は、学校なんかよりずっと広くて面白いから、他の世界を見てみるのもありだと思う。
また、これから大学なんか全入時代が来るから(来年からそうらしい)、大学はどこも学生集めに必死だ。中学や高校生活で多少挫折があっても、受け入れてくれる大学はきっと出てくるはずだと思う。
それまでに、学校を休んで、旅をしてみたり、アルバイトをしてみたりすると、自分の世界が広がってきて、案外外にも面白いものが発見できるはずだと思う。
そのためにも、教師も親も、本人を、なにがなんでも安定した学校生活に引き戻さなくては、という思い込みから解放されていないといけないと思う。

それから、もしも1人でも話せる友を見つけることができたら、幸せなことだと思う。
ぼくは、中学から高校にかけて、たった1人だけ本心を明かせる友だちを見つけることができた。それが救いになって、ぼくは学校生活を続けることができていたと思う。その人とは今でも親友のつもりだ。
一生のうちでそんなに信頼できる友だちなんて、1人見つけることができれば幸せだと思う。だから1人でもいいからそういう人を見つけるようにしてほしいと思う。
学校の中でなくてもいいから。歳が離れていてもいいから。

なんかまとまらないけれど、いじめについて何か書いてみようと思ったら、いろいろ出てきた。まだ語り足りないこともあるけれど。

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おもろい人たち

勤め先の学校での、あるクラスの6時限目。さあ授業だ、と教室に入ると、ほとんどの生徒がいない。
「?!」
みんなニヤニヤしている。わずか数名残っている生徒たちに聞くと、「先週、先生が授業ボイコットの話しをしたから、みんなでやってるんですよ」。
よく周囲を見回すと、教室の外で、窓の下に隠れてしゃがんでいる生徒の姿が見える。なんというかわいいことをするんだろうと思って、ガラガラッと窓を開けたら、「えー! なんでそんなにすぐわかんのん?!」と笑っている。
前の週の授業で、雑談として「昔ぼくが高校生だったときには、先生をいじりたくって、教室をしめきって先生を入れなかったり、教室から全員退出して先生を教室にとじこめたりしたもんだ」と思い出話を話したら、今週はこんな風に遊んでくれる。
教室の中で残っている人たちは残っている人たちで、「主張もなく、そういうことをするのはいやだ」と言ってる人もいて、これもかわいい奴らだった。高校生っておもしろいな。
まったく楽しいやつらだよ、このクラスは!
下の写真、右側が教室の外で隠れていた人たち。左側が教室に残っていたひとたち。一致団結とはいかないところが、また健全な感じでいいじゃないか。
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高校単位未履修問題に隠された陰謀

ぼくの推測では、今回の未履修や単位不足騒動の真相は、政府の陰謀、もっと正確に言うと、首相と首相の諮問機関(?)である「教育再生会議」の陰謀ではないか。
単位未履修とか授業時間数不足なんてのは、実は20年も30年も前から慣行で行われていた。ぼくは私学で自由なカリキュラムで学んでいたし、ぼくの妻は受験校で世界史の教科書だけ配られて「やったことにする」で通っていたのだ。
確かに矛盾と言えば矛盾なのだが、「それでもいい」と各校の自由度を認めてきたのは、実は各都道府県の教育委員会なのだ。
ぼくの勤める学校も、情報科で(未履修ではなかったが)授業時間数不足が問題にされてしまい、地元の新聞で報道されてしまい、大きな信用失墜に陥った。そして、担当の情報科の教師がまるで悪者であるかのように言い立てる生徒たちに、教師は本当に苦しんだ。
しかし、事の実態は、以前からこの担当教師が「ほんとにこれでいいんですか」と学校に念押しをし、校長も教頭も教育委員会に「ほんとにこれでいいんですね」とお伺いを立てて、「それでいい」と承認をうけてきたのだ。
ところが、今回、「何者か」が、文部科学省も各都道府県の教育委員会も全部とびこえて、「これは不正だ」とマスコミにリークした。
その結果、「被害者は高校生達だ」という情報に、まぁ悪いけど純粋な(そして単純な)高校生たちが踊らされて「学校が悪い!」と騒ぐように仕向けられてしまった。
とたんに教育委員会は自分たちだけ悪くなかったような顔をして、「各学校の責任」という風に裏切った。その結果、「ほんとにこれでいいんですね」と念を押し続けてきた学校がバカを見る結果になった。そして、担当教師が悪かったかのようにデマが流れる……。
結果として、何が起こったのかというと、高校生たちの怒りを利用した学校長つぶし、あるいは現場教諭つぶしなのだ。

最大の疑問は、30年ちかくも慣行として行われてきたことを、なぜ「いま」急に騒ぎ出したのか。
実は、いま教育界で大激変が起こっている。
政府は、「教育基本法」という日本で自由と平等と公平の教育を推進してきた法律を、今週か来週にでも改変しようとしているのだ。
これを改変すると、日本の教育方針は大きく愛国心や国のために個人を犠牲にせよ、という内容に方向転換する。
そして首相は5年以内には憲法9条を改変したいと言い切っている。それをやると、日本は愛国心教育をした若者たちを戦争に参加させる命令を出すことができるようになる。
そのために、反対しそうな現場の校長たちや、教師たちをたたきつぶしておく必要がある。そこで、文部科学省も各都道府県も飛び越えて、現場を徹底的に悪者あつかいするような情報操作をやったのだ。

この「教師つぶし」「現場つぶし」は、「未履修問題」の次の週は、「いじめによる自殺に対する教師の無策」という宣伝工作に受け継がれている。

高校生のみなさんは、いちばん迷惑しているのだから、大変だとは思うけれども、でも実はぼくに言わせてみれば、怒れば怒るほど、政府に利用されるだけのことなのだ。
とにかく学校が悪い、教師が悪い、というのは簡単だ。しかし、これは政府の陰謀だと、ぼくは思っている。
世の中はみんなが思っている以上に、恐ろしいことになっていることを説明する材料はいくらでもある。本当にかわいそうなのは、ほんの数年後かにどこかの戦場に立たされている、今の高校生たち自身かも知れないのに。
だから、本当に、みんな、だまされてほしくない。世の中の裏側を読んでほしい。
そして、担当教師が悪いなんて言いがかりは本当にやめてほしいと思う。

長くなっちゃったけど。いまはこの問題に対する政府に対する怒りで頭がいっぱいだ。

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「青春したいんです」

昨日も3人ほどの中一の子どもたちが、ぼくの仕事部屋にやってきて、ドラムを教えてくれと言う。
その「ドラムを教えてくれ」という本題に入るまでにずいぶんまわりくどい説明を彼女らはくりひろげるんだけど、要するに、「あたしたちも青春したいってゆーかー」ということらしい。
「青春したい」と堂々言える人がぼくのところに来てくれるというのは本当にありがたい。あんたたちが青春したいんなら、いくらでもお手伝いするよ、という気にもなる。
演劇部のときもそうだった。「おれたちの青春を味わいたいために、演劇をするんだ」と言い切ったやつがいた。
テレながらでも、堂々と「青春したい」という青くさい言葉がパッと発せられる若者たちがうらやましい。輝いている。できることなら、なんなりと協力するよ。

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横須賀学院に行ってきました。

2006年8月15~17日にかけて、横須賀の湘南国際村で、全国小中高聖書科研究集会があり、中日の16日に、地元の横須賀学院を訪問するチャンスがありました。
横須賀には海上自衛隊の基地と米海軍の基地があり、横須賀学院は米軍基地に隣接して建っていました。テニスコートのボールがフェンスを越えて基地に入ってしまったりすることもあり、年度末にまとめて返してくれたりもするそうです。
この学校ももともとは海軍機関学校があった土地であり、学校最古の校舎は、海軍の規格によって建てられたものでした。すなわち、階段の傾斜は軍艦の階段の規格と同じように設計されており、校舎の壁も、艦砲射撃に耐えられるよう、特別に分厚くして内部に鉄板を埋め込んであるのだ、ということでした。
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今学期のヒット答案2

高校3年生のテスト答案で、心に残ったのは、イエスの山上の説教。
「貧しい者は幸いである」と書かなきゃいけないのに「幸い」の漢字を書き間違えて「辛い」にしてしまった人(横棒が一本足りない)。
そりゃそうだ、貧しい者は辛い。今泣いている人も、悲しんでいる人も辛い。そうだなぁ。でも、×をつけてしまいました。残念。

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今学期のヒット答案

いまは期末考査の時期。
高校1年生の聖書科のテスト採点が昨日終わって、あとはノートを点検するだけ。まだ土曜日に高校3年生の試験が待っているのだけれど。

毎学期、面白い答案というのはあるのだけど、今回の1年生の答案で一番ぼく的にウケたのは、「オーソドックス(正教会)」と書くべきところを、「オートバックス」と書いていたやつでした。教会に行ったらタイヤでも売ってるのか、みたいな。
こういう面白い答には、ついつい点をあげたくなるのだけれど、さすがにまずいかなと思い、泣く泣くペケをつけます。面白いという理由で丸をつけてもいいかなぁ・・・。
高3の試験も楽しみだな。

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名古屋学院名古屋中高に行ってきました。

関西地区聖書科教諭の研究集会で、名古屋学院名古屋中学校・高等学校に行きました。研究授業や実践報告会などを行いました。
この日は中学生の礼拝の日。大きなチャペルの建物はツタのからまる、年代の重みを感じさせる建物でした。
チャペルの中のイスは、4~5人がけくらいの固い木の長いす。これがいいのかも知れませんね。へたにもたれることのできる個人用のイスよりも。礼拝でイスにもたれかかってくつろぐというのは、あまりよくないですから。
中学生の礼拝では、賛美歌を歌う声が圧倒的に大きいのも感心しました。この日は礼拝のあとに中学1年生による合唱の披露もありました。大きな口で大きな声を出して、けんめいに歌う姿がまぶしく感じました。歌うことが好きな子が多いのかなと思いました。
男子校が次々に共学化してゆくなかで、この学校は男子校で行く、という方針を貫くそうです。男子校、女子校、共学校、それぞれのよさがあるのですが、この学校は男子校のよさを最大限に引き出そうと、努力しておられるように感じました。いいものを見せていただきました。20060623nagoyajhchapel
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大阪水上隣保館に行ってきました。

同志社国際の企画に便乗して、同志社香里のボランティア部も、大阪府島本町にある大阪水上隣保館というところに行ってきました。その中の保育園の子供たちと午前中いっぱい遊びました。
ボランティア部の生徒たちは子どもと遊ぶのが大好きというお兄さんお姉さんがいっぱいいて、頼もしい限りでした。ゴム手袋の風船や、フラフープなどで遊んだり、砂場遊びをしました。
ちなみに、われわれは水上隣保館のことを、略して「ぽかん」と呼んでいます。
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「合掌荘」に行ってきました。

勤務先の学校の近くにある特別養護老人ホーム「合掌荘」。読んで字のごとく仏教系の施設なのだが、ここにバリバリの讃美歌やゴスペルを持ち込んでミニライブをやりました。
同志社香里のKori Gospel Choir とボランティア部のコラボレーションで、ボラ部主体でトーンチャイム隊を編成し、トーンチャイムとクワイアのゴスペルのダブルライブをやったのでした。
お年寄りのみなさんに、ひとときの楽しい時間を、と開催したのですが、トーンチャイムの「ふるさと」「見上げてごらん夜の星を」では、みなさん一緒に歌ってくださるし、クワイアの「Hail Holly Queen」と「Oh! Happy Day!」はヤバうまで拍手かっさい。
歌っている者も、聴いている者も、感動してなんだか涙が出てしまうようなライブでした。
クワイアのみんな、ボラ部のみんな、ご苦労様。いい思い出をありがとう。
ライブが終わったあとは、みんなでパゴダの丘で(さすが仏教系)記念撮影をしました。ちょっとしたインド修学旅行気分ね。
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ヤバうま

明日の訪問ミニコンサートのためにいろいろ練習してるけれども、最後のトリに持ってきているゴスペル、『Oh, Happy Day』と『Hail Holy Queen』のできあがりが、なかなかよい。指揮をしてて鳥肌モノにうまくなっている。やっぱり練習はするもんだね、みんな。明日は気分よく歌おう。

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いまからクリスマス

16日の金曜日に、勤め先の学校の近くの老人ホームに、クワイアとボランティア部による、ゴスペルコーラスとトーンチャイム演奏のミニコンサートを行う予定にしている。今日も、ソロ(リードヴォーカル)を取る女の子たちが、必死に練習してた。若いっていいなーと思う。
そして、わがクワイアはもうクリスマスの同志社キャンドルライトサービスのための選曲をはじめ、1曲目はもう決定してしまった。今年は動くのが早いから、昨年よりはいいものにしたいと思っている。
昨年は指揮者であるぼくがうつ病で調子が出ず、結局みんなに迷惑をかけてしまった。今年は少し病気もよくなったから、たぶん大丈夫。

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神戸松蔭女子大学チャペルに行ってきました。

去る5月13日(土)は、キリスト教学校教育同盟の関西地区協議会総会、という長い名前の会議に出席するために、会場の神戸松蔭女子学院大学を訪れました。
開会礼拝を大学チャペルでおこなったのですが、りっぱなパイプオルガンとその音響効果をじゅうぶんに引き出すための残響時間のながーいチャペルが印象的でした。高校の聖歌隊の合唱も、このよく響く礼拝堂のなかでは、至上の美しさでした。
礼拝のなかの音楽というものの役割を最大限に引き出すための礼拝堂ですね。20060513shoin

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関東学院中学校グレセット礼拝堂に行きました。

2006年3月18日(土)関東学院中学校にお呼ばれしまして、中学校の卒業礼拝のメッセージを担当させていただくことになりました。校長先生が「三十番地」を見てくださっていたそうで、ありがたいやら、うれしいやらです。

関東学院中学の礼拝をいっしょにおこなってみて、まず驚いたのは、讃美歌を歌う声がものすごくステージまでよく聞こえていた。声が立ち上る感じかな。校長先生は「先生方が歌ってますから」とおっしゃっていたが、それもすごいことだと思ってしまうのでした。
そして、生徒たちの聞く態度、傾聴する態度。これがよかった。もちろん若いから、コソコソヒソヒソ話も全然ないわけではなかったけれど、それに、多分ぼくが関西弁まるだしでしゃべったからで、ヒソヒソ面白がる人もいただろう。しかし、全体として、しっかりと顔を上げて聴くということができている関東学院の礼拝に、うらやましさと尊敬を感じてしまいました。
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卒業式

今日は勤め先の学校の高校卒業式でした。中高一貫校なので、中学卒業式は終業式の延長みたいですが、高校卒業式となると、卒業生ひとりひとりの意気込みもすごいものがあって、思い思いのファッションでやってくる。みんな金持ちだなーと変なところに感心したり、証書の授与を受け取るときの挙動ひとつひとつを見ても、まだまだかわいい子どもだなぁと思ってみたり。

中庭でいつまでも後輩の在校生たちと話したり遊んだりしている姿を見ていると、自分の高校時代もこんなだったかなぁ、なつかしさのかなたに消えていってしまったような気がします。

きっとぼくが関わった部分など記憶からどんどん消し飛んでいくのだろう。しかし、1年前のある日に食べたかどうか忘れたようなカレーライスが、栄養にならなかったということはないだろう、とそんなことを希望に、教師は明日も仕事をしていこうと心に決めるのです。

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広島女学院の礼拝堂

関西地区の聖書科の先生の研修で、広島女学院を訪れました。
広島女学院は6日制なので、研修に来た我々も土曜日の学校礼拝に参加することができました。
驚いたのは、生徒が全校生徒を相手に司会をし、生徒がキリスト教について話をし、奏楽も生徒だったということ。毎回ではないのだけれど、時折生徒による礼拝が行われるのだそうだ。講壇のある後ろの緞帳の向こうがステージになっていて、文化祭などのイベントのときは、この緞帳が上がって後ろにステージが現れるという仕組みになっている。後ろで見学するために集まったのが10数名の聖書科教師たちで、この我々の讃美歌を歌う声のほうがでかかったりして、ふりむかれたりした。
いやーほんと生徒による礼拝の運営というのは見る価値がありました。20060218hiroshima-g20060218hiroshima-gchpl

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金剛コロニーに行きました。

「大阪府立金剛コロニー」という施設が大阪府富田林市にあります。その昔、高度成長期の頃、「北の万博、南の金剛コロニー」といううたい文句で、万博会場と同じ時期に開発された知的障害児/者自立支援施設です。そのうたい文句にも象徴的に現われているように、日本の近代化を喧伝するために、障害を持つ人たちを一ケ所に収容するためにつくられたような大規模施設です。広大な敷地のなかに、共同生活を営む人たちが約850人おられます。
牧師のオフラインの職場である同志社香里中高校の聖歌隊は、同志社国際中高校と合同で、昨年からこの金剛コロニーでクリスマス訪問をするようになりました。クリスマス・ミニ・コンサートを催し、そのあといくつかの寮を回ってキャロリングも行います。
今年は12月23日(金)に訪問させていただきました。
前日のCLSとは違って、他の学校と比較されることもなくのびのびと歌い、楽しみながら奉仕することができました。
今年は昨年に加えて、クリスマスカードを配ったり、曲の合間にゲームをしたりしました。
また、コロニーの職員の方々も今年は気合が入っていて、自らサンタやトナカイの扮装をして登場、キャロリングでは訪問する寮とタイミングを合わせて、ケーキを前にクリスマス・パーティを演出し、そこに同志社の聖歌隊登場……という具合に工夫してくださり、私たちもやりがいのある奉仕をすることができました。
こうして受け入れてくださっている方々がいらっしゃることを感謝します。
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朽木彫るべからず

「朽木彫るべからず」という言葉を、あの有名な解剖学者の養老孟司が、ある本で引用している。「朽ちた木は彫っても仕方がない」、教育というのは、実際にはそういう冷たい面も昔からあるのだ、ということだ。
もう引退して自由になった身になれば、そういうことも言えるのかなぁと妙に感心したりもする。現役の教育現場にいる状況ならなかなか言える言葉ではないだろう。
しかし、考えてみれば聖書を見ても、いつもイエスは「聞く耳のある者は聞くがよい」と言っていたのだから、まぁそういうものなのかも知れない。自ら学ぼうという姿勢がない者は、たとえ周囲の誰がどんな手をほどこしても、何も学ぶことができないということだろう。学べないのは人のせいでもなんでもない、本人の問題だということだ。何からでも学ぼうとする人間は、どんな師匠のもとでも、師匠の意図を超えてでも、なにかを学ぶことができる。

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情けない日曜日

今日は朝から竹中平蔵という大臣が学校にやってきて、生徒相手にトークライブをやるんだという。うちの学校に来るのも2回目だ。
子どもを取り込んだほうが、将来自分が首相になるには有利だと思っているのか。自分の政策をいっしょうけんめい中学生や高校生に刷り込もうとしている。
学校としては、宣伝にもなるし、オカミから言われて逆らうわけにもいかず、参加する生徒集めに奔走し、準備で土曜日も日曜日も大忙しだ。
私立学校と言っても、カリキュラムひとつ自由に編成できないし、何か目をつけられるとすぐ補助金カットするぞとおどされ、なにひとつオカミにたてつくことなどできないようになっているのだ。
なにが情けないといって、なんで日曜の朝からキリスト教学校が政治家のイベントを取り持たないといけないんだということだ。
元来、同志社は、日曜日は「魂の日」として教会出席のために確保し、土曜日に休むということで週休2日制だったのだ。たしかに時代の趨勢で土曜日は休みの日ではなくなった時期もあったが、ふたたび週休2日制が導入されたとき、この原則を思い出す人がそれだけいたか。
逆らえば、教育委員会に目をつけられ、補助金カットどころか、改訂私立学校法にしたがって一方的な解散命令を受けてしまうことさえありうるような状況で、学校の生き残りのためにしかたがないとはいえ、日曜の朝から政治家のデモンストレーションの片棒をかつがねばならないというのは、キリスト教学校としては、あまりに情けないと感じる。

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人生のバーグラフ

中学3年生の授業で、授業を受けている子どもたちの年齢と、ぼくの年齢を、2本の太い横棒のグラフにして黒板に並べて書いてみた。
それから、平均寿命に近いところで、80歳くらいのところに印をつけた。
ぼくが、平均からすれば半分きたことはいいとして、15歳の子どもたちとしても、けっこう今の時期にしっかりと能力をつけておかないと、あとあと中盤以降の人生が楽しめないことが、ちょっとリアルにわかってくれたかな? という手ごたえだった。
それに、大学に行ったとしても、22歳あたりで厳しい厳しい社会の荒波にもまれはじめてしまう。15歳の子としては、そうなるまでにもう3分の2の時間を費やしてしまったわけだ。もう、あと残りの3分の1。小学校の3年生からいまの中学校3年生になるまでの時間を、もう1回やったら、キミたちは、もう社会のなかで、打たれ、叩かれ、しぶとく生きていかないといけないんだよ、と言ったら、すごーく神妙な顔をしていた。
ちゃんと伝わってくれていたらいいな。

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ファシズムがやってくる。

私立学校法が改訂されるらしい。
この4月から施行される改訂点のひとつに、文部科学大臣の学校法人解散命令権があるらしい。文科大臣の命令ひとつで、私立学校を解散させることができるのだ。
また、時期を同じくして、各私立学校は、「教育基本法に従うこと」という条項を、改めて「寄付行為」(学校の憲法のようなもの)に書かされている。
ということは、教育基本法が改訂されてしまった場合にも、それに従わないといけない。極端な話かも知れないが、日の丸、君が代、「愛国」心教育、そういったものを強制されて、服従しなかった場合は、文科大臣は解散権をちらつかせて服従させることができるのだ。
いきなり本当に解散させられるかどうかはともかく、大臣の解散命令権をちらつかされて、結局は自分の良心にしたがって抵抗した個々の教師が封殺され、弾圧され、迫害されることになるのかと思うと、たいへんな方向に既に進んでしまっているのではないか、と思わずにはおれない。

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自由のこわさ

勤め先の中学校の卒業式の予行。どーもダラダラしまりがない。
「6年間中高一貫教育」という理念で「4年生にあがるだけ」なら、やらなくてもいいし、「義務教育から高等教育へ」という理念でやるなら、きちっとやったほうがいい。
はっきりすればいいのに、はっきりしない教師側の態度が