『ドラえもん 緑の巨人伝』を観ました。

家族で映画を観にいこうということになって、子どもたちが選んだのが、『ドラえもん 緑の巨人伝』でした。
ドラえもんだったら、ハズレはないだろうなぁと思って観たのですが……。
ナウシカと、もののけ姫と、エピソードⅠを足して3で割ったようなお話でした。つまり目新しい要素が何もありませんでした。
あとは、特に書くことはありません。

| | Comments (2)

『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』

『パイレーツ・オブ・カリビアン』のシリーズは、第3作目の『ワールド・エンド』があまりに話題になっているので、やっとこさ今回初めて1作目をDVDで観た。
1作目でもじゅうぶん面白いね、これ。もっと早く観ればよかったな。『呪われた海賊たち』というサブタイトルになっているけど、原題は“The Curse of the Black Pearl”で、直訳すると『ブラック・パール号の呪い』。呪いをかけられた不死身の海賊たちと、ジャック・スパロウ船長の率いる海賊たちと、提督の海軍の3つどもえの駆け引きと合戦が、休む間もなく次から次へと見せ場を作って、とても子供向けじゃない、大人が楽しめる大活劇になっている。
一応ストーリーが終わって、長いエンド・タイトルが終わって、そのあとにもおまけのような落ちがついているから、タイトル・ロールが始まっても画面を閉じないように。「ははあ、それじゃあ、スパロウへの呪いは解けてないじゃん」と笑わせるシーンだ。
それにしても、スパロウ役のジョニー・デップはここのところ、本当にいい仕事しているなぁと思う。『シザー・ハンズ』でブレイクしたときは、変わった役者さんだなと思っただけだったけど、今では2枚目から奇人変人まで、なんでもできる人になった。『ショコラ』で流れ者の役をやっていたのが印象的だったなぁ。
それから、ヒロインのキーラ・ナイトレイも好きな俳優さんの一人だ。『ラブ・アクチュアリー』でかなり魅力的だったと思う。実は『スター・ウォーズ・エピソードⅠ ファントム・メナス』にも、アミダラ女王の影武者の役で出ていて、そのころから注目していたんだけど、いまは立派になったなぁと思う。ジョージ・ルーカスはこんな風に、これから売り出しになる俳優さんを発掘する才能にもたけているなぁと思う。
今回面白かったので、近いうちに2作目も観たいな。

| | Comments (0)

『ジーザス・クライスト・スーパースター』2

11月29日、『ジーザス・クライスト・スーパースター』エルサレム・ヴァージョンを観てきました。先日のジャポネスク・ヴァージョンとまた違った演出で、赤茶けた土と岩の舞台に、泥と汗にまみれた登場人物たちが踊り、歌い、跳ねます。ヴァージョンは違っても、ストーリーと歌は同じです。音楽も基本的には同じ(ただし、ジャポネスクのように和楽器を生かした音楽的演出はありません)でした。
2回目の『ジーザス』のほうが、言葉も登場人物たちの感情も、よく伝わってくるような気がしました。一度見ているから2度目は、さらに深く味わうことができたのでしょう。
ユダのイエスへの屈折した愛情が一段と際立って見えました。ユダは何度も「イエス、あなたはただの人間なのだ。それなのに、なんで神の子となろうとするんだ」と訴える場面。マグダラのマリアがまるでイエスの愛人のようにイエスに接する場面。そして、十字架での死が全ての終わりであり、復活はないという演出。こういう描き方が、1971年にすでに行なわれ、興行的にも大成功をおさめたというところに、逆にいまだに教会が人びとの求めているものをじゅうぶんに提供できていない現実を思わされます。
バッハの受難曲がクリスチャン以外の人に対する感銘を与え続けているのと同様に、この『ジーザス』も、現代の受難劇として多くの人に感銘を与え続けるのでしょう。そして、教会だけが、この世から取り残されてゆくのかも知れません。

| | Comments (2)

『ジーザス・クライスト・スーパースター』

去る11月10日、京都劇場で、劇団四季の『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ジャポネスク・ヴァージョン)を観劇してきました。
ジャポネスク・ヴァージョンあるいはカブキ・ヴァージョンというだけあって、出演者は全員歌舞伎風のメイク、舞台も大八車をモデルにしたシンプルな可動式のステージという、奇抜な演出のイエスの物語になっていました。
ロイド=ウェーバー作曲のひとつひとつの音楽が印象深く、いまも頭の中でガンガン鳴っているような状態です。そういえば音楽も、ロイド=ウェーバーの作曲した曲に、日本の古典楽器の音も混ぜられたアレンジになっていました。
客席は満席。ジャポネスク・ヴァージョンの最終日ということもあって、満席なんだろうけれど、イエス・キリストの物語だから観に来たというよりは、劇団四季のファン結集、という感じでした。芝居が終わってからも、何度も何度もカーテンコールを行なったのですが、イエスの物語に感動したというよりは、ひいきの役者さんに拍手喝采しブラボーを叫ぶという雰囲気に、ちょっと馴染めない気持ちになったのも事実でした。
売店の関連本のコーナーに、遠藤周作の『イエスの生涯』が並べてありましたが、買う人はいないようでした。しかし、こういうところでもやっぱり置かれるのは遠藤周作なんですね。田川建三の『イエスという男』ではない。田川さんの本のほうがこの劇には似つかわしい気もするけど、手軽な文庫本になっていないのがネックなのでしょうか。
ドラマでひきつけられたのは、ユダとマグダラのマリアの、二種類の異なる愛がイエスに向けられていくコントラストが印象的でした。イエスよりもユダが主役のようなストーリーでした。そしてイエスは、ユダからもマリアからも離れて、孤独に十字架の死を引き受けてゆきます。悲劇だなぁと思いました。みんな去ってゆく。さみしい終わり方です。あっけないほどのさみしさです。
その後、カーテンコールで何度も俳優たちが出てきては、さも仲良さそうに互いを引き立てあいながら登場するのを見て、ほっとしました。現実の人間の生涯においても、こうであったらいいのに、と思わされました。私たちは、この地上の人生では、互いに敵であったり、闘ったりするわけですが、もし死後の世界というものがあるのなら、そこでは、このカーテンコールのように、「すべては地上というステージでの芝居であった」と笑い会えるようであったらいいのに……と思わされるのでした。

| | Comments (2)

『トランスフォーマー』

スティーヴン・スピルバーグとマイケル・ベイが組んだ作品ということで、かなり期待して見に行きました。スピルバーグが監督をすると、『宇宙戦争』みたいに、CGはすごいけどストーリーは最悪ということになりかねないんですが、『アルマゲドン』『パールハーバー』のマイケル・ベイなら、とりあえず納得はさせてくれるだろうと思って観ました。
結論。これはもうガンダムですね。
この映像技術でガンダムやエヴァンゲリオンを撮ったら、面白いだろうなと思いました。まぁガンダムやエヴァンゲリオンのファンが、アニメ以外の方法で映像化されることを望むかどうかはわかりませんが。
ストーリーはかなり能天気で、単純に楽しめました。
クリスチャン的におもしろかったのは、主人公の少年が、授業の発表でBマイナスをつけられかけて、「Aがもらえないと、お父さんに車を買ってもらえないんだ」と必死に教師に交渉するところ。あれやこれやと理由をまくしたて、懸命に説得したあげく、彼が最後に教師に向かって発した台詞が「What would Jesus do?」。これで見事に彼はAマイナスの評価をゲットするのでした。

| | Comments (0)

『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』

「ハリー・ポッター」のシリーズは、実はまともに今まで観たことがありませんでした。旅先のホテルのロビーでビデオを流しているのをチラチラ見たり、うちの子に寝る前に読み聞かせを時々してやったり(時々妻と交代するので、断片的にしかストーリーがわかっていない)、ということはあるだけで、一つの作品をきちんと観るのは初めてでした。
初めて観た者にとっては話が飛びすぎるように感じ、やっぱり原作をきちんと読まないと面白みは伝わってこないのかなぁという感想です。
話がそれるようですが、原理主義キリスト教では、ハリー・ポッターもだめなんですよね? 日本のあるエヴァンジェリカル系の教会の配布している冊子で、ハリー・ポッターの害悪についてこと細かく書かれてあるのを見た記憶があります。やはり、奇跡をおこなえるのはイエスのみであり、魔法とか魔女とかいうのは教会の歴史で常に宗教裁判にかけられて裁かれてきたものであるから、そういうものに敬虔なキリスト者は近づいてはならんのだそうです。うちは一家でハリー・ポッターの映画をDVDで観たりしていますが、これは異端なのです。
しかし、先週発売されたハリー・ポッターの最新作は、一日目で850万冊売れたとのこと。キリスト教にとっては実に憂うべき事態です(笑)。
イスラエルでは、ユダヤ教の安息日を破って出版社との契約どおりの時刻に発売した書店が、「神との契約より出版社との契約のほうが大事なのか」と宗教政党から非難されているそうです。

| | Comments (3)

『ディパーテッド』

マーティン・スコセッシ監督の最新作『ディパーテッド』をDVDで観ました。『ディパーテッド』というのは“The Departed”(出発したもの)、つまり、この世を発った者たち、つまり亡くなった人たちのことなんですね。だからかどうかわからないけれど、実にたくさんの人びとが、この映画では「ディパート」してゆきます。
2回しか行ったことないけれど、すっかりボストンという町が好きになってしまっていたぼくは、この映画の舞台がボストンだとわかって、「お、フェンウェイだ」「お、アウトバウンドだ」「お、州会議事堂だ」と喜んでいたのはつかの間、最後はあまりに多く流される血に、ボストンの暗黒面を見たような気がしたのでした。この映画、アカデミー賞では評価されたそうだけど、ボストンのイメージはダウンしていると思いますねぇ……。話はおもしろかったですけど……。
マーティン・スコセッシ、いつかは遠藤周作の『沈黙』を撮るんですよね? 暴力描写には定評があるだけに、キリシタン弾圧の血なまぐささを思いっきり描いてくれるんでしょうか……。あんまりぼくは期待していません。

| | Comments (0)

『愛についてのキンゼイ・レポート』

リーアム・ニースンという俳優が好きだ。『スター・ウォーズ・エピソード1』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』などで、殺されるシーン。『シンドラーのリスト』、『ラブ・アクチュアリー』や、この『愛についてのキンゼイ・レポート』などで泣くシーンなど、人間の弱さ、もろさ、そしてそこを経験しきった上に現れてくる強さを描かせたら、彼の右に出る者はいないのではないかというのは大げさだろうか。

それはともかくこの映画、原題名はシンプルに『KINSEY』、これでアメリカでは通じるのだろう。日本では「キンゼイ・レポート」というほうが通りがいいのだが、それにしても若い人には何のことやらわからないのだろうと思う。
日本語題名では「愛についての……」となっているのだが、実はアルフレッド・キンゼイは最初から愛について探求していたわけではない。生物学者として、人びとの悩みに答えるために、人間の性行動をただひたすらに事例研究し、一般論を導こうとしていただけだ。「愛」については、ラストシーンを観た観客が自分で考えるように作られている。なんともいえない余韻のある、うまく作られた映画だと思う。

印象に残ったのは、「人間はすべて違う」というメッセージがこの映画にこめられていることだ。彼が最初に研究したタマバチの何が素晴らしいか。それはどれ一つとして同じものはないということだった。それと同じように、人間の性行動も一人ひとりみな違う。そこが素晴らしい。
そして、一人ひとりみな違う性だが、似ているところもある。人に話せば異常だといわれるのではないかと恐れて普通は口に出さないことを、キンゼイは聞き取り調査で公表してゆく。そのことによって人は「自分だけではないのだ」と知り、救われるのだ。
人びとの性行動の実態は、マスターベーションあり、異性愛あり、同性愛あり、婚前交渉あり、婚外交渉あり、夫婦交換あり、さまざまに複雑で、入り組んでいた。建前としての倫理道徳とは裏腹に、人びとの性行動は実にバラエティに富んでいた。
しかし、旧来のキリスト教信仰にしがみつく陣営の人びとは、キンゼイを不道徳で破廉恥な学者として攻撃する。「どうあるべきか」ではなく「実際にどうなのか」を情報収集し、発表しただけのキンゼイは大いに傷つき悩むことになる。彼は、事実を探求し理解したいと思うあまり、率直で正直にその事実を公表した結果、まるでその公表内容が彼自身の犯罪であるかのように傷つけられてしまうのだ。
また、彼の支持者だと名乗る人びとにも、彼を単なる野放図なセックスを正当化してくれる教祖のように誤解する者も現れてきて、それが彼の悩みを深めてしまう。

自分の著作が人びとに攻撃され、スキャンダル呼ばわりされているさなかに、「あなたの本に救われた」と告白する人が現れるくだりは、他人事とは思えず、涙が出そうになった。
「救われた」と告白する人が、性的にマイノリティを呼ばれる立場の人であることにも、キンゼイの存在意義を主張するこの映画の姿勢がよく表れている気がした。
ロードショーで大ヒットするタイプの映画ではないが、いい映画だったと思う。

| | Comments (0)

『父親たちの星条旗』

レンタルで出たのでさっそく観ました。最初にディスクに印刷されている原題名を見て、「あれ? どうしてだろう」と思いました。原題名は“Flags of Our Fathers”でした。硫黄島に立てられた1本の旗のことが問題じゃないのか? どうして「旗」が複数形なんだろう? その謎は映画を観て理解できたのですが、そのことをここに書くと、ネタバレになるので書きません。でも重要なポイントだったと自分でも思います。
一対の作品として製作された、もう1本の『硫黄島からの手紙』が感情に訴えかける映画だとしたら、この『父親たちの星条旗』は、考えさせる映画というように感じました。
戦場で消費されてゆくのは弾薬、戦車、戦闘機、戦艦、そして兵士の命です。この映画は、政治家たちが戦争にかかるお金を集めるために消費しつくされてしまう兵士達の悲劇を描いています。国歌のため、国民のためといわれながら、徹底的に利用される最底辺の人びととしての兵士の悲劇です。

映画を観て考えることというのは人それぞれ、また複雑であろうと思いますが、私が考えたことの一つを以下に書きます。
あの戦争が、当時の日本にとっては「国家総動員」の体制であったのですが、アメリカではすでに「戦場に送られる者」と「決して戦場には行かない者」の圧倒的な格差が生まれていたことが、この映画を観ていてわかります。
私は、いまの日本は、すでに「戦場に送られる者」と「決して戦場に行かない者」の格差のある社会となったのではないかと思います。ですから「教え子を戦場にやるな」という教師の言葉が、子どもたちに耳にも実感の伴わない空しい言葉となってしまったいるのではないかと思います。国家はすでに戦争に手を染めているにも関わらず、国民の多くが、「自分が戦場に行くわけではない」すなわち「究極的には自分の生命の問題ではない」と思えてしまえる状況です。
「国家総動員」も恐ろしいことですが、「戦場に送られる者と送られない者の格差」も恐ろしい状況だと思いました。経済力もなく、教育もない人が、最終的に食べるに困らない職場といえば、それは軍隊なのではないでしょうか。「格差社会」というのは、単に生活レベルの差や、教育の差が広がるだけではなく、結局は最底辺の若い人びとの受け皿としての軍隊を増長させることにつながることではないのかと危惧します。
私たちの社会は、兵士という最底辺の人びとの命の犠牲の上に、繁栄を維持しようとする、血塗られた社会構造を、アメリカの真似をして作り上げようとしているのではないか。
この映画を観て、逆に日本のことに思いをはせ、そんなことを考えたわけです。

| | Comments (0)

『硫黄島からの手紙』

試験の中休みで、映画を一人で観れないぼくのために出動してくれる人がいて、『硫黄島からの手紙』を観ました。
いつもこういうところで映画の話題をすると、ネタバレになるから、内容については書かないことにします。
ただ、戦争の悲しみ、怒り、おぞましさを可能なかぎり描いてくれた作品だと思います。
ぼくは、この映画を観て、かつて自分が、若い頃、「戦争には行きたくない」「今度の総理大臣は日本を戦争に持っていってしまうんじゃないだろうか。いやだ、絶対にいやだ」と思いながら、幼いなりに政局を見守っていたことを思い出しました。
戦争はおそろしい、人が人によって、武器によって殺されるということはおそろしい、という単純な事実を確認することは大切なことではないかと思います。
ぼくの戦争嫌いの原体験は、『はだしのゲン』という廣島に落ちた原爆の被害をうけた家族の物語のマンガと、ベトナム戦争の写真集でした。どちらも中学校の図書室で出会ったものです。ベトナムの写真集は、ついこの前まで行われていた戦争ということで、非常に身に迫るものがありました。地雷で吹き飛ばされて、下半身を失った戦友の遺体を引きずって歩いている米兵の姿は、今も忘れられません。
単純に「恐ろしい」「おぞましい」「あってはならない」という感情は、大切だと思うのです。
そういう素朴な感情を、『硫黄島からの手紙』は思い起こさせてくれました。
いま、40歳を過ぎて、ぼくは自分の子どもや、自分の教え子たちが、戦場に立たねばならないことがないように、と強く願います。かつて、ぼく自身恐れていたことを、いまは子どもたちが味わいはしないだろうかと、とても心配するのです。
ぼくは、そんなに子どもたちに人気のある教師というわけではないけれども、子どもたちはぼくが彼ら彼女らのことを心底心配しているということをわかってくれるだろうか。いや、わかってくれるかどうかはこの際どうでもよい。彼ら彼女らに戦場に行ってほしくない。戦争で死んでほしくはない。
『硫黄島からの手紙』には渡辺謙という、いまや国際的スターとなった俳優が出てきます。それが話題にもなっています。ぼくは彼のファンの一人だし、彼はすばらしい演技を披露し、一人の魅力的な人物像を描いてくれます。
しかし、それ以上に、この映画には、戦場に送り込まれた「ふつうの人」を描きます。そして、ありがたいことに、この映画は、私たちが「ふつうの人」の感覚を失わないように結末まで持っていってくれます。
よい映画だと思います。自分の教え子や、自分の子どもにも見せたいと思います。

もうひとつ。
この映画はクリント・イーストウッドとスティーブン・スピルバーグの共同制作です。
スピルバーグはかつて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などで、非常に日本人に対して侮蔑的な描写をしていた映画作家です。しかし、この映画をプロデュースしたということで、彼も変化したのだ、と見直す気持ちになりました。
『シンドラーのリスト』、『プライベート・ライアン』、『ミュンヘン』を監督し、『シン・レッド・ライン』、『バンド・オブ・ブラザーズ』をプロデュースしてきた彼の歩みは、着実なものであったのだ。仕事というものは、ちゃんとやらなくてはいけないものだ、と改めて彼を尊敬する気持ちになりました。

| | Comments (0)

『ダ・ヴィンチ・コード』

正月に改めてDVDで『ダ・ヴィンチ・コード』を観た。
改めて観て思うことは、「やっぱり(原作を読まないで)初めて観る人には意味不明なシーンが多いな」ということ。まぁキリスト教の教養が当たり前だと思われている世界で作られた作品なので、キリスト教圏以外の人間にとってはわかりにくいのは当然なのだが、『パッション』同様、非キリスト教徒にはたいへん不親切なつくりになっているのが、今回妙に気になった。

思えば昨年はこの映画や小説をめぐって、保守的なキリスト教の陣営から、ずいぶん攻撃がなされたものだけれど、ひとさわぎ終わってみて改めて観ると、そんなに大したことは言ってないんだけどね、と思ってしまう。
イエスが人間であり、結婚していたかどうかはともかく女性との間に子どもがいたからといって、別にそれでもいいではないかと思ってしまう。
保守的なキリスト教徒にとっては、イエスが人間との間に子どもを作ったということが大問題になるらしい。三位一体の神そのものである方が、人間とセックスをし、しかも神と人のセックスの結果生まれてくる子どもはいったい神なのか人なのか、わけがわからないことになるらしい。しかし、三位一体であるとかイエスは子なる神であるとか、そういう教義を字義通りに頭から信じ込んでいるからこういう袋小路に陥るのであって、教義はキリスト教が成立したあとからイエス自身の意思とは関係なく作られたものだということがわかっていれば、どうということはない。
イエスはまぎれもなく人間なのだ。
そして、マグダラのマリアがイエスともっとも近い関係を持った女性であることも明らかだ。その二人の間に子どもが生まれたとしても、不思議なことはない。そして、イエスの死後、イエスの弟子たちが、イエスの愛人や子どもについて隠そうとしたことも不思議なことではない。実の母マリアについてさえ詳しいことはほとんど隠されているのである。イエスの愛した人などに権威を持たせたくはなかっただろう。

ただ、その血統が後々まで続いていたのだ、というところになると、映画も小説も決定的に説得力を失う。
特にこの作品の最大の弱点は、イエスの子孫を引き継いでいるのが、小説のヒロインだった、という結末である。小説の登場人物である、ということはフィクションそのものである。それまでどんなに「事実に基づいている」ことを売り物にシオン修道会の秘密やオプス・デイの暗躍を描いて見せても、最後に、「イエスの子孫はこの人だ」と指し示したのが小説のヒロインという架空の人物では、どうしようもない。
本当にイエスの子孫は実在するのだ、と言いたいのであれば、その人物がじっさいにどこに住んでいる、なんという名前の人物か、ちゃんと紹介しないといけない。そうでないと、結局すべてはフィクションだったのか、ということで終わってしまう。
そんな単純な決定的欠点があるのに、特典映像で見る限り、小説家も映画監督も自信たっぷりだ。ぼくには、どうしてこんなに作者たちが自信たっぷりなのかが、さっぱりわからない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『宮廷女官 チャングムの誓い』

実は最近になってテレビで観始めたので、とっつきはとても遅いのだ。でも、面白い。いろんな人に観てなかったところを教えてもらいながら観ている。
基本的に、薬学とか健康とか医療のウンチクを研究しながらドラマが進むのが面白い。
いろんな権力構造のなかで、医女チャングムが実力でのしあがっていくのが面白い。医学の実力はあるのだけれど、心は繊細なのがまたよいのだ。
「人は立場を見るが、書物は立場を見ない」という、思いを寄せる人の言葉もよい。
もうすぐテレビシリーズは終わるらしい。残念だなぁ。まとめてビデオで観る時間は、たぶんない。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

『スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃』

この作品から、ヨーダがフル・ディジタル・キャラクターとして登場する。それまでは、パペットと呼ばれる人形だった。人形を操作しながら声でも演技していたのが、フランク・オズという人で、TVシリーズ「セサミ・ストリート」のクッキー・モンスターやグローバーなどを担当していた人だ。この「エピソード2」からは、彼は単に声優として出演することになる。人形らしい動きを再現しつつ、なお生きたヨーダをコンピュータ・アニメーションで表現するには、相当の苦労があったらしい。
そのほかの出演者の演技でも、危険なスタントや人間が演じるには少し無理のあるスタントは、ディジタルで表現してしまうようになっていた。オビ・ワン・ケノービやジャンゴ・フェットのアクション、アナキン・スカイウォーカーの激しい動きは全部コンピュータで作った画像だ。あるいは、激しいシーンでなくても、首から上だけが生身の人間の映像で、首から下は全部コンピュータで作った画像という具合に、すみずみまでディジタル化が進んだ映像となった。さらには、静かなラブシーンでも、俳優の手の動きが気に入らないから、といって手だけを別にコンピュータで作って、もとの映像に差し替えるということまでやっている。
ここまでやられてしまうと、アマチュア映画作家にはとうてい届かない技術力の差というものを感じざるを得ない。最初の「エピソード4」がかつての映画少年の夢をかりたててくれたのとは対象的に、この「エピソード2」まで来ると、逆に夢をそがれるような感情を抱いてしまう。結局は大規模な予算と多勢のスタッフ、そして最先端の技術力があってこそ、思い通りの映像が撮れるのかと思うと、予算も機材も少ない中で懸命に映画作りをする者にはついていけないものを感じてしまう。
だからこそ、アマチュアの作品は、脚本に力を入れて、ストーリーでうならせるようにしなければならないのだろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』

完全に仕事から逃避している。明日からがんばろう、という気持ち。明日から、明日から……。
『エピソード1』。なぜかこの作品だけが邦題もそのまま「ファントム・メナス」になっている。あえて訳せば、「迫り来る不気味な脅威」とも言えるだろうか。
旧3部作から約20年を経て、CGの技術が充分整ったところを確認したうえで、初めてジョージ・ルーカスの妥協のない思い通りの映像を撮るべく創られた作品だ。これをやはり監督や編集、特撮の担当者が解説する、音声解説で観た。
それにしても、担当者が白状しているが、いろいろ失敗している。ポッド・レースに出てくるレーサーを描きこむのを忘れて空席のままポードが飛んでいるとか。あとで左右反転させるつもりでオビ・ワン・ケノービの付け髪を逆につけておいたら、結局そのままの映像を使ったために、他のシーンと逆になってしまったりとか。また、担当者たちはコメントしていなかったけれども、最初のほうのシーンでジャージャーと二人のジェダイが対面するシーンで、オビ・ワンの髪が長くなったり短くなったり、本当に何度も撮り直ししたんだな、ということがよくわかる映画だった。映画全体に悪影響を与えることはほとんどないようなことばかりだったけれども。

こういう映画は俳優にとってはきついだろうな、と思った。ほとんどをブルーやグリーンのバックの前で、よく舞台背景もわからないまま、しかもあとで追加するCGキャラと話している演技など、その場には実際にはいない相手と演技をしなくてはならない。

それから、ぼくはこの「エピソード1」のライトセイバーのバトルが6部作の中でいちばん気に入っている。ダース・モールのダブルライトセイバーと、2人のジェダイの対決、そして最後のオビ・ワンとダース・モールの死闘は、二人の運動神経のバツグンさもあって、ものすごいスピード感と迫力にあふれている。ダース・モールを演じたのは、本職は少林寺の先生をしている人らしい。見事だと思う。また旧3部作になかった、ソード・マスターというスタッフが加わったことも、リアリティのあるセイバー・バトルのシーンを撮るのに役に立っている。新3部作のセイバー・バトルを観ると、旧3部作のバトルが、ただの棒の殴り合いにしか見えなくなってしまう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『あらしのよるに』を観ました。

近所の純福音の教会で子ども会をやるという。ちらしを子ども達がもらってきて、『あらしのよるに』の上映をするから行きたいとねだられた。そこで、ちょっとどんな教会か興味もあったこともあって、午後からその教会に出かけることにした。
そういうわけで観た、アニメ映画『あらしのよるに』。
食われる立場であるヤギと食う立場であるオオカミの友情。かわいい映画だけど、なかなかいい脚本だった。
特に、二人とも飢えてとほうにくれてしまったときに、ヤギが「自分を食べて、おまえは生き残れ」と言ったとき、オオカミが「チクショー、オレはどうしてオオカミに生まれてしまったんだ!」と自分を責めるところは、なんとなくジンときて涙が出そうになった。
なぜ生きるのか、なぜ食べるのか、何に命をささげたいか、そういう問いかけがつまった作品だったように思う。子どもも大人も見ごたえのある作品だと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『ラブ・アクチュアリー』を観ました。

熱烈に勧めてくれる人がいたので、ずいぶん前からレンタル屋で探していた。今回やっと見つけて観ることができた。

いくつもの恋愛、家族愛、友情がクリスマスを迎える季節の移り変わりの中で、同時進行で温かく描かれてゆく。数多くの登場人物たちが、みな少しずつ関連を持っており、最後はそれが一同に会するハッピーエンド。見る人を和ませてくれる、優しい映画だった。
年齢的なものや俳優の趣味かも知れないが、自分としては、妻を亡くした男(リーアム・ニーソン)と亡くした妻の連れ子の男の子との、親子とも男同士の友情とも取れるような不思議な関係に心を惹かれた。この男やもめが「もうオレには終わったことだ」とあきらめていた恋愛のチャンスがふと訪れるあたりの演技も、ニーアム・ニーソンならではの温かい渋さが光っていた。
また、人目には幸福そうに見える夫婦(アラン・リックマンとエマ・トンプソン)なのに、夫が職場の女性の誘惑に負けてしまうあたりから、夫婦の信頼感が崩れてゆくあたりの悲しみの描き方にも注目してしまった。それでも、この夫は妻に謝り、二人は夫婦生活を続けてゆく。結婚生活とは、こうして少しずつ壊れたものを抱えながら、壊れたことにまつわる悲しみを抱えながら、それでも助け合って生きていくものというメッセージがあったように思う。
登場人物がたくさんいて、いくつものストーリーが同時進行するので、あらゆる世代の人が共感しやすい映画になっていると思った。

ただ、ごく限られた、中流以上もしくは上流の、生活に困っていない人たちだけを登場人物にしぼった映画なので、その点ではリアリティに欠ける気はした。限られた人たちが限られた人たちに向けて作った、自画像的娯楽作品という感じだった。

それでも、妻に死なれたリーアム・ニーソンが「もうオレには終わったこと」と半分人生への希望を失っていたところに、ふとした偶然が現れるところに、この映画の人生に対する楽観的なところがあって、希望を与えてくれるような気がしたのは確かだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『スターウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還』

『エピソード6』を音声解説で観た。
3部作を約10年間かけて造り上げることで、各スタッフが技術的にも人間的にも成長したのだということがよくわかったような気がした。
ぼくが特に興味を引かれたのは、旧3部作、新3部作ともに長く常にルーカスの側で仕事をしたベン・バート(旧3部作ではサウンド・デザイン。新3部作では編集も担当)のコメントだった。ビデオなどを編集したことのある人なら、この面白みがわかると思う。ぼくも1作だけ、劇をビデオ化した作品を撮りあげたことがあるが、全く別の時間に撮られた一つ一つのカットをつなぎ合わせ、各カットの間の音の不自然な切れ目を消すために、わざと一定のノイズを入れたり、メインの役者の演技にかぶせて、背景となっている人物の話し声を右や左のトラックに振っていったり、さまざまな効果音を付け加えて、ひとつのシークエンスを作ってゆく過程は映画作りの醍醐味だ。
その過程を1人で行うのは、あまりに困難と疲労を極めたので、ぼくの場合は2作目を撮っている途中で挫折したままだ。しかし、いつかまた誰か信頼できる仲間と新しい作品を作りたいな、と思わせる映画だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『スターウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』

『帝国の逆襲』の特別編を、やはり音声解説で観た。「エピソード4」の音声解説メンバーに加えて、監督のアーヴィン・カーシュナーが加わっている。
ジョージ・ルーカスは監督からも脚本からも退いて、ストーリーを作ること以外は、技術面の人的・財政的サポートに徹したという感じだ。
それがよかったのだと思うけれど、「エピソード4」の色彩感覚の乏しいところや、照明の単調さが、ぐっとカラフルになり、明暗や陰影のある映像になって深みを増している。
登場人物の感情表現の指導のヘタさかげんは、ルーカスは新3部作で露呈してしまっているけれども(特に「エピソード3」のアナキンがダークサイドに落ちるところはひどいと思う。学芸会みたいだった)、それに比べて、この「帝国の逆襲」はひとりひとりの感情の爆発や葛藤がよく表現されている。
そういうこともあって、最近になってこの作品の評価が上がってきているのだろうと思う。やっぱり映画監督というのは偉い仕事なのだな、と思う。しかもこの監督のアーヴィン・カーシュナーは、自分の作ったストーリーでもないのに、このような偉業をなしとげている。写真を見たとき、けっこう年配の人だなと思ったけれども、要するにベテランということなのかも知れない。経験はあなどれないものだと思う。
さて、こうして旧3部作を観ると、新3部作とラストシーンの作り方がパラレルになっているのがわかる。「エピソード4」のラストと「エピソード1」のラストは、セレモニーの大団円シーンで終わる。「エピソード5」と「エピソード2」は、主要登場人物たちの背中が立ち並ぶシーンで終わる。さて、「エピソード6」はというと、ずいぶん前に観たので忘れてしまった。次に観るのはいつの日か。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望』

 『スターウォーズ』を、1997年の特別編のヴァージョンで、ジョージ・ルーカス(監督・脚本)やベン・バート(音響デザイン)やデニス・ミューレン(特殊効果)、キャリー・フィッシャー(レイア役)らの音声解説で観た。
今見ても、そんなに古さを感じさせない。もっとも特別編のために付け加えた映像や編集のおかげもあるけれど。
もともとは1977年代に作られた。あの頃は本当に苦労してひとつひとつの映像を撮っていったんだなぁということが改めて感じられる。宇宙空間での爆発は無重力なはずなので、火薬を爆発させて、ガラスごしに真下からカメラで撮影するとか。それまでは、宇宙船と言えば、ピアノ線で宙吊りが当たり前だった時代に、模型を後方から支えてブルー・スクリーンの前で撮影し、模型を動かすのではなくカメラを動かして、低速度で撮影すると実際には早く飛んでいるように見えるとか。スケールの大きな背景はマット・ペインティングという、緻密な絵を描くアーチストに描かせていたとか。
今ならばCGで映像化できるものを、すべて手作りで撮っていた。そのアイデアや姿勢に、映画少年だったぼくらも「自分でも何か作れるのでは……」は希望を与えられたものだ。
その頃(1970年代)、ぼくらが持っていたのは、ディジタル・ハンディカムの代わりに、8ミリフィルム・カメラだった。それでも、自分たちには何かができると信じて、カメラをカタカタ回しながら、自主制作の映画を撮ったものだったなぁと、思い出す。その記憶は昨日のことのようだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『ラスト・サムライ』を観ました。

1877年前後という明治時代が始まって間もないころの日本を舞台に、最後のサムライたちと出会ったアメリカの軍人の物語。
トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、小雪らのキャストがかっこいい、美しい。風景も美しい。物語も美しい。完璧な美しさを持つ映画だと思った。(飛行機雲が映っていた1カットだけが残念だったけど)
ニュージーランドの山地に、あんなに日本の風景によく似たところがあるんだ、と感心もした。

日本にとっては難しい時代を描いていた。天皇の軍隊を形づくった薩摩や長州を中心とした勢力が、戊辰戦争によって抵抗勢力をやぶり、政権を握ったわけだが、朝敵とされて敗れていった武士たちにとってはさぞや無念だったことだろうと思う。戊辰戦争で破れていった幕府側の武士たちも天皇を敬う気持ちは十分にあったことだろう。それを天皇の敵として片付けられていったのだから、たまったものではなかったのではないか。
靖国神社にはこのときの戦い以来の英霊が祀られているというが、この明治維新のときの戊辰戦争で靖国に祀られているのは、天皇の軍隊、つまり同じ日本人でありながら幕府側に忠義を尽くした武士たちは、日本人戦死者として祀られてはいないのだ。このように明治維新は、そして靖国神社、近代天皇制は、天皇の味方、天皇の敵という色分けで、自国民をも分断したのだと、ぼくは理解している。
この映画は、明治の大日本帝国の時代が始まってもなお武士道に忠実に生きようとし、天皇を敬いつつ、時代の変化の中で天皇の敵とされてしまい、葬られていった人びとを描いているという点で、たいへん興味深かった。
映画は最後に天皇が、「いかに日本が西洋化されようとも、日本人の心を忘れてはならない」というようなことを言って終わるが、この程度で天皇の名のもとに滅ぼされていった侍たちの無念が晴れるはずもない。

敗れた側で生き残った多くの元サムライ達のなかには、キリスト教に新しい生きる道を見いだしていった者もいることも忘れてはならないだろう。
新渡戸稲造は「武士道」という書物を著したが、この書のなかで彼は、日本で急速に失われようとしていた武士道を、キリスト教伝来以前に神が日本に与えた道徳として描いて見せた。そして、明治以降、日本に広まったプロテスタントのキリスト教は、「武士道的キリスト教」であるとも言われ、内村鑑三などはその代表格とされている。
武士道的キリスト教を、その道徳内容で論じた神学的な書物はあるけれども、ひとりひとりの元サムライたちが、明治維新をどのように生き延び、何を思ってキリスト教に身を投じていったのか、をきちんと描いた本にはまだ出会っていない。たぶんぼくの勉強不足なのだろう。
新島襄などは、維新の混乱期にちょうど日本を離れていた変り種だ。しかし、帰国したときに自分の出身である安中藩の武士たちが、戊辰戦争に破れ、多くの友人は死に、生き残った者も没落氏族としてなりを潜めたことを知ったときには、なにを思っただろうか。その敗れた藩の出身者が、同じく戊辰戦でズタズタにされた会津藩の出身者である山本覚馬と共に立てた学校が同志社であり、彼らが建学の理念としたのがキリスト教であった。天皇を現人神として祭り上げる時代に、人は神の前に皆平等であることを教える宗教を根本精神としたのである。

話が長くなった。映画からも話がズレた。今日はこのへんでやめよう。あの時代の歴史には興味が尽きない。まだまだ勉強不足だけれども。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『キングダム・オブ・ヘブン』を観ました。

『グラディエイター』に続いて、再び時代物を手がけたリドリー・スコット監督の最新作だ。舞台は1100年代十字軍の時代。フランスで鍛冶屋をやっていた一人の青年が、キリスト教勢力とイスラーム勢力のパワーバランスのなかに巻き込まれてゆく。
主人公はあくまで「戦争はしたくない」というスタンスを守っている。しかし、自分を狙う者については戦いを向かい受けてゆく。このスタンスが、同じように専守防衛の姿勢を保つイスラーム信徒との間にひとりずつ友情と尊敬を築き上げてゆく。
登場人物が多いので、混乱しそうになるが、テーマを簡単にまとめれば、「戦争をしかけてゆくのは、キリスト教徒の中の無知で強欲な人びと。イスラームはキリスト教徒の侵略に対して防衛と報復の戦争をするだけだ。そして、イスラームにも尊敬されるような人徳を持つキリスト教徒は、必ずイスラームとの間に和平を築くことができるだろう」ということだ。
映画の結末には、「それから1000年たっても、まだエルサレムでは和平が成立していない」と文字が現れるように、この映画はやはり現代のキリスト教帝国とイスラーム勢力の和平を願いつつ製作されている。
いまのアメリカの大勢を見る限り、この映画はアメリカではヒットしなかったのではないか。
しかし、ぼくは個人的にはこの映画のテーマが気に入った。帝国というものを現代アメリカを暗示しながら批判的に描くという『グラディエイター』以来のリドリー・スコット監督の手法は健在だ。戦闘シーンの迫力も実写とCGを結合させながら、超リアルで迫力があった。ぼくのお気に入りの作品の一つになった。

| | Comments (0)

『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観ました。

キューバ革命の指導者で後にCIAによって射殺された、チェ・ゲバラの若き日々、彼と友人の二人で南米大陸を一周したバイク旅行(後半はバイクが壊れて徒歩旅行)の手記を映画化したもの。
最初は軽いドタバタ珍道中旅行記のような映画だったのが、二人の旅と共にさまざまな南米社会の問題を我々見る者も見聞きすることになる。南米大陸の貧困、社会的不公正が、旅によって明らかにされてゆく。
ぼくはこの映画を観て初めてしったのだが、チェ・ゲバラはもともと医学生でしかもハンセン病が専門なのだということだ。
この映画でも最後に、旅の終着点として、あるハンセン病療養所が描かれるが、隔離主義的なカトリックの修道会の療養所経営に反抗して、ゲバラたちは患者たちと手をふれあい、共にスポーツを楽しみ、ハグしあって仲良くなってゆくのが、個人的には感動を覚えた。
こちら側の職員村と、「向こう岸」の島にある患者村の隔たりを、ゲバラは泳いで渡り、ふたつの世界を結びつけようとする。
日本のハンセン病でもずいぶん長い間、隔離政策は改まらなかった。やっと国への裁判に勝ったときには、みんなおじいさん、おばあさんになっていた。
そんなことも思い出しながら、さわやかな印象を遺すこの映画を観終わった。

| | Comments (0)

『ギャング・オブ・ニューヨーク』を観ました。

何年か前にキリスト教とも関連あるんですよね、と教えてもらったまま、長い間観ないで放ったらかしにしていた映画を、やっとDVDで観た。
アイリッシュのカトリック神父の息子が主人公(レオナルド・デュカプリオ)なのだが、この設定にさっそく「アイルランドのカトリック神父は結婚してもいいのか? それとも結婚なしにできた子どもなのかな?」なんてことが気になる設定ではあった。
主人公は刑務所を出るなり、渡された聖書を川に投げ捨てる。にもかかわらず、自分が危機に陥るときには、聖ミカエルに守護を願う祈りをささげる。聖書うんぬんではなく、土着化してしまった身についた信心とはこんなものなのだろうかとも思う。
映画の終盤近く、主人公とその父親の仇敵と、そして町の上流階級が、それぞれに自分たちの守護を神に願い出る祈りの場面があり、三人三様の「アーメン」が描かれる場面がある。同じキリスト教の同じ神に、人はみな自分の都合で祈っている。そのことに皮肉を感じる描き方だった。
全知全能の神とは言え、全く異なる立場の敵同士が、それぞれに守護を祈ったところで、誰に応えるというわけにもいかないだろう、と思った。しかし、これが現実というものだろう。人間の祈りは、みな自分の都合で祈っているだけだ。神は見えない、言葉も発しない。だからこそ、私たちは他者の都合も顧みず、自分本位の祈りをささげることができるのだ。

| | Comments (0)

『コンスタンティン』を観ました。

十字架型のマシンガンを持って、この世に侵入しようとする悪魔たちを地獄に送り返す男、ジョン・コンスタンティンを描いたコミック原作の映像化。キリスト教のことなど何もしらなくても、スリラー&アクションの作品として楽しめるようになっている。
けれども、やっぱりキリスト教、特にカトリックの素養があったほうが楽しめる映画ですね。自殺は大罪であるとか、自己犠牲の死は天国行きだとか、悪魔の子マモンが人間の女性のお腹を借りてこの世に生まれようとするのは、神の子キリストが人間の女性(マリア)から生まれたことをまねているのだ、とか。
主演はマトリックスのキアヌ・リーヴス。彼が主演した『マトリックス』シリーズでも、最後は自己犠牲の死が最も尊いものだという場面が描かれる。そういう価値観の映画を彼が選んで出演しているのか、それとも現代のユダヤ・キリスト教界に基本的に流れている精神なのか、キリスト教界は広すぎるので、ぼくにははっきりわからない。

| | Comments (0)

『宇宙戦争』を観ました。

もう最新作ではなくなった、スピルバーグ監督の『宇宙戦争』を観る。
……脚本作家が悪いのか、監督が悪いのか、なんとも中途半端なエンディングの映画だった。
だいたい人類が発生する何百万年も前から地球を監視して、そしていよいよ侵略の時を迎えた、というのであれば、地球の環境くらいは調べるだろう。宇宙人が生身で地上を徘徊すれば、自分たちに害になる微生物が地球上にあることくらい調べているはずだろう。そんな無用心で間抜けな宇宙人であること自体が不自然だと思う。

スピルバーグ氏は忙しすぎるんじゃないかと思う。
『A.I.』のときでも、いくつもある撮影現場を飛び回って演出して移動しまくっていたらしい。『マイノリティ・リポート』や『ターミナル』や『ミュンヘン』の演出をかかえながら、あとのポストプロダクションはスタッフにまかせて、次は『宇宙戦争』だ、その一方でちょっとだけルーカスの『エピソード3』を手伝ってみたり……みたいな過密スケジュールで、十分映画の内容を練りこめてないんじゃないかな、という気がする。
脚本家ととことん詰めたりしないで、言うとおりにさっさと撮って、あとは特撮スタッフにまかせちゃう、みたいになってるんじゃないだろうか、あくまで想像だけど。だから、やたら荒っぽい話の、しかし特撮だけはやたらと暴走気味に力が入ってる、みたいな映画になってしまうんじゃないだろうか。

|

『アイランド』を観ました。

『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』はなんとかいっしょに見てくれる相手を確保できたのだけれど、それとほぼ同じ時期に公開されていて、主演も同じユアン・マグレガーという人気者ぶりを見せ付ける作品、しかもマイケル・ベイ監督の迫力あふれるアクション映画ということは知っていたのだが、結局いっしょに見てくれる人を見つけられなかった。
一大決心をして、独りで観る映画の第一号に選んだのが、この『アイランド』だ。
人造人間やクローン人間を題材にしたストーリィとしては、よくある話だが、この映画の脚本でほかのクローンものと違ってぼくが面白いな、と思ったのは、この映画のテーマが「クローンの解放」だったことだ。
クローンものと言えば、スター・ウォーズだってクローンの兵隊が使い捨てにされるままになっているし、シュワルツェネッガーの『シックス・デイ』もクローンの個人的な反乱を描いている。しかし、クローンが「社会的に解放されてしまう」映画というのは、いままでなかったのではないかと思う。
ぼくもささやかながら、人権問題を啓発する「解放劇」などという作品をいくつか書いて上演もしたが、そこで扱われるテーマは部落差別の問題がメインだった。ところが、ぼくの頭の中では、「いつかクローンの人間を作り出したときに、クローンの人権はどうなるのだろう?」とよく考えたものだった。
みんなクローンの人間をつくること自体の倫理性を問題にしている。しかし、いずれは誰かが作るだろう、そしてそれには歯止めがかからなくなるだろう。
しかし、クローンと言っても、赤ん坊から始めて、ふつうの人間と同じように育つ「人間」だ。遺伝子的には同じでも、自我の意識も別だし、遺伝的要素以外はすべて異なっているし、とにかく別の人格なのだ。それは、人工的に「ふたご」を作ったに過ぎない。それなら、クローンといえども人間なのだから、人間としての権利を保障されるべきではないのかと考えていた。
この『アイランド』という映画は、そのあたりの問題意識を刺激しながらも、深くは考えず、力技のアクションの連続でクローンたちを解放してしまった。だから、とても面白かった。
『ブレード・ランナー』というリドリー・スコットの映画では、レプリカントという人造人間の「寿命」が問題になって、創造主である人間に反抗を企てる、というストーリィだったが。この路線を正統に受け継いだ佳作だと思う。

|

ひとりで観る映画

ぼくは、もともと独りで映画を観ることができなかった。
恋人であったり、妻であったり、友だちであったり、相手はいろいろなのだけれど、どうもいっしょに誰かがいてくれないと映画を観ようという気にならなかった。これは映画館でも家でビデオを観るときでもそうだ。
だから観たい映画がやってきたときは、困る。だれかいっしょに観てくれる人を探すのに一苦労するのだ。
それが原因で、ずいぶん観たいのに観ていない映画がたまってしまった。
そこでぼくは一大決心をし、この2006年からは独りで映画を観ようと決めた。したがって、この牧師館のブログにもときどき映画の感想などを書いてみようかな、と思っている。

|

その他のカテゴリー

Books | Church | Diary | Drinks | Education | Foods | Health | Monologue | Movies | Music | Religion | Work