ヨハネ受難曲ふたたび

酒を飲みながら、バッハの礼拝音楽を聴くというのは、バッハや神に対して失礼にあたるのだろうか……?
今日はほろ酔いかげんで、「ヨハネ受難曲」をCDで聴いている。
ほろ酔いで受難曲を聴くと、なぜか涙があふれてくる。
前にも一度書いたことがあるような気がするが、数百年の時を超えて、受難の悲しさ、切なさを現代人であるぼくに送り込んでくるバッハという巨人には本当に敬意を表する……。

| | Comments (2)

『ジーザス・クライスト・スーパースター』2

11月29日、『ジーザス・クライスト・スーパースター』エルサレム・ヴァージョンを観てきました。先日のジャポネスク・ヴァージョンとまた違った演出で、赤茶けた土と岩の舞台に、泥と汗にまみれた登場人物たちが踊り、歌い、跳ねます。ヴァージョンは違っても、ストーリーと歌は同じです。音楽も基本的には同じ(ただし、ジャポネスクのように和楽器を生かした音楽的演出はありません)でした。
2回目の『ジーザス』のほうが、言葉も登場人物たちの感情も、よく伝わってくるような気がしました。一度見ているから2度目は、さらに深く味わうことができたのでしょう。
ユダのイエスへの屈折した愛情が一段と際立って見えました。ユダは何度も「イエス、あなたはただの人間なのだ。それなのに、なんで神の子となろうとするんだ」と訴える場面。マグダラのマリアがまるでイエスの愛人のようにイエスに接する場面。そして、十字架での死が全ての終わりであり、復活はないという演出。こういう描き方が、1971年にすでに行なわれ、興行的にも大成功をおさめたというところに、逆にいまだに教会が人びとの求めているものをじゅうぶんに提供できていない現実を思わされます。
バッハの受難曲がクリスチャン以外の人に対する感銘を与え続けているのと同様に、この『ジーザス』も、現代の受難劇として多くの人に感銘を与え続けるのでしょう。そして、教会だけが、この世から取り残されてゆくのかも知れません。

| | Comments (2)

『ジーザス・クライスト・スーパースター』

去る11月10日、京都劇場で、劇団四季の『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ジャポネスク・ヴァージョン)を観劇してきました。
ジャポネスク・ヴァージョンあるいはカブキ・ヴァージョンというだけあって、出演者は全員歌舞伎風のメイク、舞台も大八車をモデルにしたシンプルな可動式のステージという、奇抜な演出のイエスの物語になっていました。
ロイド=ウェーバー作曲のひとつひとつの音楽が印象深く、いまも頭の中でガンガン鳴っているような状態です。そういえば音楽も、ロイド=ウェーバーの作曲した曲に、日本の古典楽器の音も混ぜられたアレンジになっていました。
客席は満席。ジャポネスク・ヴァージョンの最終日ということもあって、満席なんだろうけれど、イエス・キリストの物語だから観に来たというよりは、劇団四季のファン結集、という感じでした。芝居が終わってからも、何度も何度もカーテンコールを行なったのですが、イエスの物語に感動したというよりは、ひいきの役者さんに拍手喝采しブラボーを叫ぶという雰囲気に、ちょっと馴染めない気持ちになったのも事実でした。
売店の関連本のコーナーに、遠藤周作の『イエスの生涯』が並べてありましたが、買う人はいないようでした。しかし、こういうところでもやっぱり置かれるのは遠藤周作なんですね。田川建三の『イエスという男』ではない。田川さんの本のほうがこの劇には似つかわしい気もするけど、手軽な文庫本になっていないのがネックなのでしょうか。
ドラマでひきつけられたのは、ユダとマグダラのマリアの、二種類の異なる愛がイエスに向けられていくコントラストが印象的でした。イエスよりもユダが主役のようなストーリーでした。そしてイエスは、ユダからもマリアからも離れて、孤独に十字架の死を引き受けてゆきます。悲劇だなぁと思いました。みんな去ってゆく。さみしい終わり方です。あっけないほどのさみしさです。
その後、カーテンコールで何度も俳優たちが出てきては、さも仲良さそうに互いを引き立てあいながら登場するのを見て、ほっとしました。現実の人間の生涯においても、こうであったらいいのに、と思わされました。私たちは、この地上の人生では、互いに敵であったり、闘ったりするわけですが、もし死後の世界というものがあるのなら、そこでは、このカーテンコールのように、「すべては地上というステージでの芝居であった」と笑い会えるようであったらいいのに……と思わされるのでした。

| | Comments (2)

チャイコ

ここ最近、我が家では、『白鳥の湖』のCDがガンガン鳴っている。一家全員で食事中も食事の後も、ずーっと聴いている。チャイコフスキーってつくづく天才だと思う。こんなに美しいメロディーで、こんなに完璧なオーケストレーションを考え出して、楽譜にしてゆくなんて、とんでもない天才だなと思う。「あーあ、天才はいいねぇ」とぼやきながら、今日も食器を洗って片付けたのでした。

| | Comments (0)

ジェネシス

数日前に、生徒たちといっしょに、ボストンセルティックスのバスケットボールの試合を見に行きました。連敗続きだったセルティックスがこの日は、接戦の結果、勝利をおさめたので、楽しかったんですが、試合が行われたノースバンクガーデンというホールで、近日中にジェネシスのライブが行われる予定であることを発見しました。
いやー、ぼくはねー、どんな新しい音楽が出てきても、結局自分の好きなのは、ブリティッシュロック、とくにプログレッシヴロックが一番のお気に入りに落ち着いてしまう人なのですね。
ジェネシスの新譜も何も情報が日本に入ってこない中で、こうして、アメリカヨーロッパ圏ではライブもやってて健在なんだと知ると、本当にうれしくなりますね。
プログレファンでない人には、何の意味もない記事を書いてしまいました。
ジェネシスの3人は健在です。いえーい、わかんないやつにはわかんない。

| | Comments (0)

マタイ受難曲@大阪

大阪のフェスティバル・ホールで上演された、ドレスデン聖十字架合唱団とドレスデン・フィルの『マタイ受難曲』を聴いてきました。
最初にJ.S.バッハによって上演されたのは1727年だそうですが、その頃は第1部と第2部の間に説教があったといいますから、一体どこに休憩があったんだろう。やはり、昔の人の時間感覚は今の我々とは違うんだなぁと思わされました。

当たり前のことですが、やはり、CDで聴くのと本物を前にするのとでは、全然違います。
今日は福音史家のソリストが感情こめて実に表情豊かに歌ってくれたので、ありがたかったです。
バッハがイエスの死をいかに活き活きと描こうとしたか、また人間の、つまり自分の罪をいかに自覚し、それが贖われることを心から望んでこの曲を描いたということ、そして、復活が予定された安易な受難節でなく、徹底的に殺されたイエスの死への感謝と鎮魂に焦点を当てていこうとしていたことなど……それらが、ライブでよく伝わってきました。終わってみれば、あっという間の3時間でした。

いろいろ感動したところはあったのですが、それはさておき、ライブならではの面白さも見てきました。
第1部の最初のほうで、クラリネット奏者が自分の出番であることを忘れていて、なかなか始まらない曲があったりとか、後ろに並んでいる少年合唱団の子どもが途中で足を踏み外してドスンと音を立ててしまったりとか。
合唱団の子ども達は9歳から19歳だそうで、若い、かわいい。出番じゃないときには座って待つんですが、いまどきの若者らしくヘコッと背中を丸めてだらけた座り方するんですよ。あと2-3人楽譜を忘れてきているやつもいたな。となりの子の楽譜を見せてもらいながら歌ってる。いいのかな、日本人なめられてんのかな、とかいろんなことを考えてしまいました。
でも、演奏は一級でしたよ。ちゃんとやることはやってるんだ、って感じでした。

| | Comments (3)

マタイ受難曲2

あらためて「マタイ」を最後まで聴いてみると、「復活」という観念がどこにもないことに気づく。
第78曲の最終合唱は「Ruhe sanfte, sanfte ruh!」(いこいたまえ、安らかに。安らかにいこいたまえ」という、死したイエスへの鎮魂の言葉がただひたすら唱えられる。
イースターの準備にいそしみ、復活祭のお祝いを予期しながら、イースター・エッグのタマゴなんかゆでているのんきな教会のムードなど、ここにはみじんもない。
死は死なのだ。
イエスが死んだ、イエスが殺された、その事実に焦点をしぼって、決してブレることのないのが、バッハの「マタイ」の終曲だ。
その死をもって事足れりと解釈するか、それとも、あえてここで復活を語らないからこそ、復活の喜びが新鮮であるのか、ぼくにはなんとも言えない。
しかし、マルコ福音書がもともと復活の記事など含んでいなかったように、バッハの受難曲にも復活がなくても、それはそれでいいではないかと思う。
復活祭のドンチャン騒ぎは、ヘンデルの「メサイア」にまかせておけばいいではないか。「メサイア」はもともと復活祭のために書かれたのだというのだから。もっとも、「メサイア」を書いた頃、ヘンデルも体をかなり壊していたと聞いたことがある。彼の復活への思いが「メサイア」を彩っている。そう考えると、「メサイア」をドンチャン騒ぎと評するのは失礼かも知れない。
芸術はそれを創り、造りあげた人の思いを汲んで、さらに味わいが深くなる。

| | Comments (6)

マタイ受難曲

金曜の夜がやってきて、バッハの「マタイ」を聴く。
「ヨハネ」とは違い三拍子でじわじわと畳みかけるように迫ってくるオープニングだ。第一部の合唱は、第一群と第二群が左右に分かれ、呼び合うように、「Sehet(見よ)」「Wen?(誰を?)」、「Seht ihn(彼を見よ)」「Wie?(いかにいますか?)」、「Sehet(見よ)」「Was?(何を?)」、「Seht(見よ)」「Wohin? (いずこを?)」と声が行き来する。そこにさらに「O Lamm Gottes unshuldig....(おお罪なき子羊……)」と合唱が重なってくるのだ。よくぞここまで音を積み上げ、組み合わせることができるものだと舌をまく。この巨大建築物のような音の構成の中に、キリストの受難の悲壮さがあふれ流れている。
「マタイ」には何度となく同じメロディのコラールが現れる。日本語の賛美歌では「讃美歌」136番、「血潮滴る主の御頭(みかしら)」の歌詞で知られたメロディだ。この日本語の歌詞も受難節に歌うにふさわしく、よく作られていると思う。ぼくが好きな賛美歌のひとつだ。もともとこのコラールは13世紀前半から伝わる受難コラールらしい。バッハの時代にすでに400年以上前から伝わっていたわけで、それをバッハは何度も用いて、さまざまな歌詞を乗せながら、礼拝参加者と共に受難節の感情を深めていく音楽を作ったわけだ。
そして、さらに約300年以上のときを越えて、この生臭信徒に、それでもキリストの受難の重さ、深さ、悲しみ、喜びを心の沸き立たせてくれる。バッハの音楽というのは、ものすごい力を持っているのだなと、改めて思わされる。

| | Comments (7)

ヨハネ受難曲

昨夜、「ミサ曲 ロ短調」を聴いて、今日は「ヨハネ受難曲」を聴いた。受難曲は「マタイ」のほうが有名だけれども、1曲目の出だしのインパクトでは、やはりヨハネのほうに軍配を上げたい。
弦楽が積み上げてきた音の平原の上に、突然地から天に突き上げるようにとどろく“Herr! (主よ!)”という叫びが脳天を突き抜ける。
“Herr...! Herr...! Herr...! Unser Herrscher!(主よ!主よ!主よ!われらの統治者よ!)”と神に呼びかける声が、切なく、重い。
普段リベラルで宗教的な思いについてはなるべくドライで軽くいようと思う自分が、実は心底から神の愛に満たされたいという飢えを抱いていたことを思い出させてくれるのが、バッハの音楽だ。
宗教的な飢えを抱かないでバッハの音楽をただ音楽として愛好している人がいるというのは、ぼくには信じがたいことだ。ぼくは音楽の専門家ではないが、バッハの音楽によってたしかに信仰心が呼び覚まされる。そして、信仰の覚醒と同時に、芸術としても感動している。これは、バッハの民衆に対して望んだことでもないのかと思う。
受難曲の中には、テノール(福音史家)とバス(イエスなど)によって語られる物語の歌の間に、要所要所にコラール(賛美歌)が配置されている。バッハが教会で演奏した当時の人びとは、このコラールのときには、いっしょに声を合わせて歌える者は歌い、アレンジが凝ったものなので歌えなかった人も、心の中で歌に参加していたはずなのだ。
音楽で語られる壮大な聖書の物語の中に、参列者も参加してゆく、そうやって礼拝が作られてゆく。バッハと同時代の礼拝参列者たちがうらやましいと思った。

| | Comments (8)

ロ短調

つらいとき、ひとりで落ち込むしかないとき、バッハを大音響で聴いて自分を癒すことがある。大音響といっても、本当に大きな音を鳴らすと近所迷惑だから、ヘッドフォンで鳴らすのだけれど。
今、聴いているのは、「ミサ曲 ロ短調」。カール・リヒター指揮の1961年の録音だ。自分が生まれる前に録音されたなんて信じられないくらいの音質だ。
最初の“Kyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)”。何人で歌っているのか、合唱の「キリエ」の「リ」の巻き舌音が全員の声からはっきりと聴き取れる。このしぼりだすような第一声の「キリエ(主よ)」の叫びで叩きのめされて涙が出る。本当に、「主よ、憐れんでください」と音楽と一緒に願い祈る心に持っていかれる。
やはりバッハは礼拝の音楽であり、音楽を聴くこと自体が礼拝になる、そういう音楽なのだ。

| | Comments (6)

その他のカテゴリー

Books | Church | Diary | Drinks | Education | Foods | Health | Monologue | Movies | Music | Religion | Work